[1598]勝海舟のパトロンは関西の豪商たちだった

田中進二郎 投稿日:2014/05/05 19:30

「幕末の英傑」勝海舟はパトロンの論文を剽窃(ひょうせつ)して出世した

田中進二郎です。ひさしぶりの投稿です。よろしくお願いします。
二か月ほど前に、副島先生から幕末・明治の日本についての集中講義を受けました。その中で、幕臣の大久保一翁(いちおう 忠寛 ただひろ 1816~1887)が裏方(あるいはボス)として果した役割が非常に大きい、ということに気付かされました。副島先生が「幕末のミッシング・リングが解けた!」とおっしゃっていました。

そこで古川愛哲(ふるかわ あいてつ)著の『坂本龍馬を英雄にした男 大久保一翁』を読んだところ、大久保や勝海舟らにも影響を与え、陰で資金も出していた豪商たちがいたことが分かりました。
上記の本には、勝海舟のパトロンとして、函館の豪商、渋田利右衛門(しぶた りえもん)、伊勢松阪の竹川竹斎(たけかわ ちくさい 1809~1883)、紀州湯浅の浜口梧陵(はまぐち ごりょう)、摂津の灘の嘉納次郎作(かのう じろさく)の名があげられている。

浜口梧陵は安政の大地震(1854年)の際に、津波から村人たちを救ったという『いなむらの火』の話で有名だ。東日本大震災の後、小学校の教科書にこの話が復活した。(ただし、話と実態は少し違うそうなのだが。)
嘉納次郎作(じろさく)は「姿三四郎―講道館物語」の嘉納治五郎(じごろう)の父である。
彼らは勝海舟(麟太郎 りんたろう)に、自由に勉学するだけの資金を共同で出していた。この資金援助は、黒船来航(1853年)より十年ほども前から始まっていたという。
海舟20代前半の頃だ。
海舟は自伝の中で、高価なオランダ語の辞典である『ヅーフ・ハルマ』58巻を持っている蘭医のところに毎日通って、筆写したと得意げに語っている。いかにも苦学をしたように言っているが、それは事実ではなかったのだ。生活苦からこのころにはすでに解放されていたのだ。海舟には多いウソ・ハッタリの一つなのだ。

竹川竹斎や浜口梧陵ら、勝のパトロンになった豪商たちは、ただの学問好きであるだけでなく、諸外国の勢力が日本に伸びてくることを真剣に憂慮していた。竹川は日本は開国をして、貿易で利益をあげることを目指さなければならない、と考えていた。そして、その輸出品を作り出す産業育成を幕府に求める提言を行っていた。それが1851年に竹川が著した『護国論』である。江戸時代の在野の知識人たちの中に、幕藩体制の危機を意識し、具体的政策を論じた経世家(けいせいか)とよばれる人たちがいる。本多利明、佐藤信淵(のぶひろ 1769~1850)、林子平らである。竹川竹斎は佐藤信淵の門人であった。

勝海舟はパトロンの竹川から『護国論』を受取り、これをパクッて自分の『海防意見書』に組み込んで幕府に提出した。
通説では『海防意見書』は、日米和親条約締結後、老中阿部正弘が幕臣たちに意見を公募したのにこたえて、勝が提出したものとされている。それを幕府の老中たちが読んで、感心して勝の幕府登用がきまったことになっている。
しかし上記の古川愛哲氏の『坂本竜馬を英雄にした男-大久保一翁』には次のように述べられている。引用する。

(引用開始)

 語られなかった勝海舟の幕府登用の真実

海舟の『海防意見書』の発想は、それほど独創的なものではない。「強力な海軍を作れ」とは、井伊直弼(いい なおすけ)も書いているが、それ以前から、師の佐久間象山の持論である。(中略)
また海舟の「西洋学問の学校を造れ」との主張は、一翁が自ら建白したことである。

(田中進二郎です。この西洋学問の学校を造れ、という建白は1856年に蕃書調所【ばんしょしらべしょ】の設立で実現している。大久保一翁は勝海舟をこの蕃書調所御用に登用したのだ。引用を続けます。)

さらに「積極的な貿易論」も、海舟独自のものではない。竹斎は嘉永四年(1851年)に『護国論』という一冊を書いて、それを海舟に献呈していた。『護国論』とは、貿易で国を富ませて護ることを説いた書である。
「人材登用」を主張する海舟の意見は、一翁との合作だろう。
 海舟の「海防に関する意見書」は、一翁が海舟を幕府に登用するために、津田真道(まみち 真一郎 岡山の津山藩士 蘭学者)と三人で合作したと思われる。すべて老中・阿部が求めていたことばかりである。     (p64より)

(引用終わり)

田中進二郎です。
つまり老中の気に入る案を大久保は勝に書かせて、それを阿部正弘に回し、阿部は勝を抜擢することになっただけのことである。勝はこのあと下田取締掛手付 兼 蕃書調所御用という任務を幕府から命じられ、百俵五人扶持の俸禄を与えられている。
勝海舟は自分のパトロンや先生の業績を剽窃(ひょうせつ)したのだ。だからとても「幕末の英傑」と呼べる柄ではないのだ。

●幕末の憂国の豪商たちの活動は歴史から抹殺されている

ところで、勝海舟のパトロンの一人であった竹川竹斎とはどのような人物だったのだろうか?上野利三著『幕末維新期 伊勢商人の文化史的研究』という本は、竹斎の日記を十年がかりで解読して、彼の行動とネットワークを明らかにしている。
私はこの本を読んで、彼の邸宅と私設図書室がまだ保存されていることを知り、三重県松阪市の射和(いざわ)地区を訪ねた。そこで竹斎のご子孫の方に会って、お話を伺うことができた。

射和(いざわ)というのは、松阪市から10キロほど南西にいったところ(JR紀勢本線相可駅の近く)の集落である。松阪市の有名な史跡である、本居宣長の鈴屋(すずのや)や三井家発祥の地、三井高利(みつい たかとし)の屋敷跡などがある松阪城下ではない。
ではなぜ、町外れの射和という集落に富が集積することになったのか。それは丹生山(にぶやま)という水銀の採掘場が近くにあったためである。水銀といっても、無機水銀であり少量の人体への摂取は新陳代謝をよくするものとされてきた。(過度に摂取すると中毒死するという。)
だから、水銀の原鉱物(朱砂 しゅさ)を独特の製法で、白い粉(白子 しろこ、軽粉 かるこ)にし、女性の用いるおしろいや漢方薬にもなっている。

竹川竹斎の師であった経世家の佐藤信淵が射和の丹生山について、『経済要録』(文政十年 1827年刊行)という論文の中で次のように紹介している。引用する。

(引用開始)

不昧軒翁(ぶまいけんおう 佐藤信淵の祖父)いわく、土地赤色なるところには必ず水銀ありと。予(佐藤信淵)あまねく四海を遊歴して、翁の説を推究するに、奥州の朱沼山、羽州の鹿内(しかない)山、勢州(伊勢)の丹生山、阿州の丹生谷などの土地赤色なるところには、果たして水銀気を含有せり。
(中略)
続日本紀(しょくにほんぎ)の元明天皇の和銅六年(の項)に、伊勢国井沢(射和 いざわ)より初めて水銀粉を(朝廷に)献り(たてまつり)たる由を載す。いわゆる粉とは軽粉のことなり。これは勢州丹生山より掘り採れる水銀にて製したる軽粉なり。
丹生山には中古にはすこぶる水銀を多く出せしが、近来山崩れてついに廃山に及べり、惜しむべきことかな。そもそも水銀は薬物となり、白粉(ここではおしろいをさしているだろう 田中注)となり、朱を製し、鏡を明にするのみならず、その他鍍金(ときん メッキ)をなし、諸金を粉末にするなど、人生の要用きわめて多きものなり。然るに今の世に当たって、皇国の諸州に絶てこの物を出すの地なし。開物に従事する者は、心を細かにして此を探索するを専務とすべし。又もし国土を持つ者、よくその領内の地方を(調べ)尽くして、物産(会)を開くことあらば、この物(水銀)もまた出でまじきものにもあらざるなり。
 (佐藤信淵著『経済要録』巻の四-開物上篇 岩波文庫p70より引用した)
      
(引用終わり)

田中進二郎です。このように佐藤信淵は、竹川竹斎の商家のある射和に足を運び、丹生山を探索していることがわかる。中世から江戸時代にかけて、射和には水銀加工場が80軒もたちならんでいた。そこでつくられた白子は伊勢湾から回船で各地に運ばれた。三重県の鈴鹿市には今も白子(しろこ)という海に面した町がある。きっとここから運ばれていったに違いない。ここは江戸時代は紀州藩の飛び地で、回船問屋を紀州藩が統制していた。
また大黒屋光太夫は、ここの回船問屋の家に生まれている。そして沖船頭として、白子-江戸間の千石船(せんごくぶね)に乗って航海中に嵐に遭って漂流し、一行はロシア人のいるアリューシャン列島に漂着した。(1782年)

竹川竹斎のご子孫から直接伺ったのだが、水銀を白い粉にした白子(しろこ)は梅毒の特効薬としても珍重されたという。梅毒の水銀治療というのは、オランダでも行われていたようだ。オランダから1775年に出島にやってきた、医師チュンベリーが梅毒の水銀療法を幕府の長崎通詞たちに教えた。(中西啓著『長崎のオランダ医たち』 岩波新書p82より)
長崎には、日本三大遊郭のひとつ、丸山遊郭というのがあって身売りした遊女たちがそこにたくさんいた。梅毒の患者もかなりいたのだろう。だから、きっと射和の白子は長崎でも用いられたはずだ。

こうしてみてくると、射和の商家群が、時代時代の封建領主に重税をとられながらも、新しい知識を導入して、水銀を改良しながら、財を築いていったことがおぼろげながらわかってくる。
そして、木綿問屋から出発し、江戸の伝馬町に本店を構えていった、伊勢松阪城下などの長谷川家や、三井家などに負けないほどの両替商に発展していったのだろう。
竹川家は勝海舟のパトロンであっただけではなく、幕府の為替御用商人として、幕府に金を出資していた。また大名貸しも行っていた。明治維新でこれらの投資はすべて新政府に没収されたため、三つもあった竹川家は没落して、今は分家の竹川竹斎の家がかろうじて残ったという。
勝海舟は自分のパトロンの竹川家が没落しても、それを内心苦にしていなかったようだ。義のために苦しむという人間ではなかっただろう。本当にひどいやつだと思う。

田中進二郎拝

●参考・引用文献
古川愛哲著『坂本竜馬を英雄にした男 大久保一翁』(講談社プラスアルファ新書 2009年刊)
上野利三著『幕末維新期 伊勢商人の文化史的研究』(多賀出版 2001年刊)
佐藤信淵『経済要録』(1827年刊 岩波文庫所収)
中西啓『長崎のオランダ医たち』(岩波新書 1975年刊)