[157]日本社会を憂う

高橋 郷 投稿日:2011/01/06 03:42

傲慢を恐れずに言わせてもらうなら、私は岩手を知らずして維新後の近代日本は語れないと考えている、生粋の岩手県人であり、日本人以外のアジア人とアフリカ人の友人たらんと願い、恩師であるProf. Broadnax(http://faculty.maxwell.syr.edu/broadnax/)のように、権力にしがみつくことなく役割を終えれば自ら身を引くことを知るごく少数の一部の米国人を尊敬する者でもある。
元大統領のクリントンなどは権力の残骸にしがみつくだけの凡人だ。師であるProf.Broadnaxは、私の知る限り、国に捉われず社会と人間の本質を語ることのできる世界でもごく少数の者の1人である。彼と比べれば、直接話を聞いたことがあるが、ジョゼフ・ナイなど単なる知ったかぶりのインテリでしかない。(未だに講演中必ず米国の占領政策の成功モデルとして日本を名指しで持ち出す愚か者だ。)

 先月岩手銀行が世銀のグリーンボンドを購入するという愚行を犯したが(http://surouninja.seesaa.net/article/174633460.html)、県民の資産を危険にさらしたそのことの真意を問いに本店市場金融部を訪ねた。その結果、担当部長より「トリプルAの信用度がある米国債と同様グリーンボンドも岩銀の信用格付けでは最高位である。(それゆえ購入した)」との驚くべき回答であった。米国債と世銀の債券が最高格付けとは。この担当者はよほど世界の金融情勢に疎いのか、それとも権力者におもねるやからなのか。岩銀は長らく永野一派により支配されていることは公然の秘密であるが、うわさ通りご機嫌とりやごますり上手な者が上級職を占める組織だ。(どこの会社も似たようなものかもしれないが。)この記事のように、(http://blog.goo.ne.jp/ibarakiisuzu/e/dae53108667e3c218b0a32a6c838c352)永野氏は会長職を2009年春に電撃解任されているが、それはうわべのニュースの話でまだまだその影響力は衰えていない。現にこの担当部長も私が永野氏と同郷であることをにおわせただけでとたんに態度を変えてきた。日本人は本当に卑しい者が多くなってしまった。自己の安定のみを考え、小さくまとまるか、自己の栄達だけを考え、他人を蹴落とすような、卑しいものか、その2極化がはなはだしい。
温暖化問題など、今さら語るのも馬鹿馬鹿しいが、米国では、公共政策の中で、温暖化政策を学ぼうとする者はnutとレッテルを貼られるし(私は米国で温暖化についてどう教えているのかを知りたくて受講したが)、私の見たところでも、どちらかというと草食系の人間(いわゆるnerdと呼ばれるような)方が多いように思う。ちなみに、私はまじめに頑張っている人間をnerdと呼んで蔑むような米国文化は認めることはできない。そして、米国的平等と考えられてもいる、外国人もいっしょくたに米国の基準を押しはめて評価するやり方には断固として反対である。私はこのことで大学学長・副学長にも直訴して話しあったが、学長は何を勘違いしたのか、「本学で学ぶものはグローバルリーダーでなければならない」などとたわごとを言いだした。身の程知らずだ。米国発のグローバルリーダー等誰も欲してはいない。
温暖化に話をもどすと、米国の理系の科学者なら、気候変動などまともに測定できるはずがない、と言い切る。米国にいると、日本の温暖化問題熱が異様に見えて仕方がない。ノーベル平和賞を受賞したからと、IPCCの言うことを世界一額面通りまともに受け取るのも日本だけだ。私の教わった経済学の教授は、ノーベル賞は単に専門家のための賞だといった。そのとおりである。ノーベル賞=天才のような図式を描き、受賞者を持ち上げ、専門外の社会問題にまで口出しさせて聞いて喜んでいるのは日本人だけだ。学閥だってそうだ。いわゆる名門校にいくのは、”才能がある”ではなく、米国ではまず”お金持ち”の子弟と考える。この辺の権威に対する考え方は米国の数少ない良い点である。
大学のプログラムディレクターからは環境政策を専攻したいと相談した際、”環境問題は科学者かエンジニアが取り組むべき問題であって、経済学以外の政策面からのアプローチは意味がないからやめた方が良い”とアドバイスされた。全く正論である。日本では、理系の素養のない文系の人間ほど温暖化問題に口出しをしたがるから困ったものである。個人的には、ここまで暴走した温暖化問題がどういう帰結点を迎えるかには興味があるが。

日本に戻って来てから数カ月。留学前からわかっていたことであるが、日本が巨大な談合社会である現実は相変わらずだ。そして世界における日本のプレゼンスの弱体化は危機的状況であるのに、政治家ですらそのことを理解せず、どうでもよい小沢氏の問題を執拗に追及している。国民は、政治を遠い世界のことと思わず、どんどん身近な政党・政治家事務所を訪れ、意見を言うべきだ。そしてその人が(事務所が)どういう対応で話を聞くのかしっかりみなさい。政治の質が悪いのは、政治家の問題ではなく、良い政治家を育てる努力を放棄してきた国民自体に責任がある。この国にはまだ、民が主役の民衆主義が根付いていないのだ。
本日(5日)は、自民党の事務所を訪問した。1区の支部長がまだ決まらないと言う。高橋ひなこ氏という報道があったが、彼女では力不足だ、と私は言った。自民党はどうも、地元の名家、旧家(要は金持ち)の声に影響を受けやすいようだ。岩手の県都盛岡でも、土建屋の樋下氏が勢力を振っているし、現在の盛岡市長谷藤氏も地元の有力者、橋市グループの出だ。(谷藤氏の奥様は、数年前ご相談にお伺いした時、「八方塞がりだと思っても、上を見れば、ほら天井があるじゃない」とおっしゃってくださった面白い方である。)「高橋ひなこ氏の家に遠慮することはない」とも言ってきたがどうなるか。次回の選挙で自民党に揺れ戻しがくることは、これはもう明らかであるが、岩手においては、まだまだ民主が強い。どうやら自民党岩手県連は、誰を出しても、階猛氏には勝てないと白旗を上げているようだ。情けない。階氏は、てらいのなく、まじめなところは、一般人としてなら大いに好感がもてる。しかし政治家としてはどうか。少なくとも、階氏の東京の秘書、コボク氏は、礼儀知らずの嘘つきだ。しかし、岩手の階氏の秘書は礼儀をわきまえ、人の話に耳を傾ける。仲間をきっちりかばう。しかしそれは、あくまでも秘書の話である。そもそも、小沢氏は尊敬すべき立派な政治家であるが、岩手の全ての民主党議員が立派なわけではない。内閣府副大臣の平野氏は、議員立法であるNPO法案に成立には、とんと役に立たない人であるようだ。秘書のホシ氏も、「お世話になっております」と私に話す暇があるなら、主人の仕事をしっかりとさせてほしいものである。TPPの仲介役を果たしたなどと、周囲の人間以外は誰も評価していない。
岩手県民は、そろそろ、”東大”神話から脱却すべきだ。”東大”卒が能力の何の保証も担保にもなっていない現実をきちんと直視し、理解しなくてはならない。しかるに、岩手県は、愚かにも”東大卒”の肩書のあるものばかり当選させてきている。達曽知事しかり、階氏しかり、平野氏しかりだ。田舎の人間ほど、肩書に弱い。達曽氏など、民主党内からも知事に反対の声があったではないか。役人をやっていたということは、型どおりの枠のなかでしか発想できないということなのだ。(増田知事は違ったが。)現に、留学する東大出の官僚の多くが米国の授業についていっていない。(彼らは国費留学生なので黙っていても卒業はできるが。米国はそういう配慮はする国なのだ。)
いくら小沢一郎氏を応援したいからといってその他の有象無象まで一緒に当選させるのは次からはやめなくてはならない。どの党でもいいから、しっかり自分の足を運んでその人物と話をして判断しなさい。もっとも、対立候補にもたいした人物があまりいないのが、現状ではあるが。しかし、落選した中にもなかなか見どころのありそうな方はいらっしゃった。肩書や党名ではなく、自分の頭で判断しなさい。小沢一郎氏は偉大である。しかし、いつまで、日本に燦然と輝く歴史をもつ岩手県を「小沢王国」などと狭い社会にしておくつもりか。小沢氏に恩返しするつもりで、日本の他地域に先駆け、自立した”岩手県人”を次回の選挙で示してもらいたい。それが岩手県人としての矜持というものだ。

脈絡のない文章になってしまったことお詫びいたします。