[1552]慰安婦問題についての若干の考察
本題に入る前に、この半年の間に一地方都市大津で起きた話題を二つご紹介いたします。
一つは大津市と琵琶湖を挟んだ対岸にある草津市を結ぶ有料の近江大橋(通行料金150円、有料区間6.1キロメートル橋梁部1.3キロメートル)が昨年の12月26日から無料開放されました。この橋は滋賀県道路公社が建設、1974年に開通して以来39年間通行料金を徴収する事で、橋の建設費の償還と無料化後の維持管理の基金の準備を整えて無料化にふみきりました。
無料化になった後、私自身も以前よりも頻繁に橋を利用する様になりました。やはり只であるという事は大変ありがたいことです。交通量がどのくらい増えたのか正確な統計は見ておりませんが、橋を通る時の実感としては二倍以上の車が通るようになったと思います。橋から大津市内に入るメインの道路はこのためかなり車両が増え、それを見越して一年以上前から周辺道路の拡張工事が行われていました。今も浜大津付近では拡張工事が行われています。
もう一つの話題は昨年の夏ぐらいから琵琶湖上空を飛ぶプロペラ機の重低音の不快な爆音が朝昼晩を問わず毎日頻繁に聞こえるようになり、爆音がうるさいので腹立たしく思っています。私が目撃したのは自衛隊のヘリコプターでした。それ以外の輸送機や米軍の飛行機も飛んでいるのかもしれません。夜中の三時ごろ目覚めたときにも爆音が聞こえていました。夜間飛行の訓練を行っているのでしょう。軍用飛行機の爆音など一昨年までは気にも留めた事がありませんでした。全く不愉快なことだと思います。
さて、表題の「慰安婦問題」に付いてです。
大津市には大津赤十字病院という立派な病院があります。ある事がきっかけで大津赤十字病院の歴史を調べた事がありました。
大津赤十字病院の前身は滋賀県駆黴院(くばい いん)という施設でした。なぜこのような聞きなれない施設が明治の初期に設けられたかと言いますと、話は幕末にまでさかのぼります。
【検黴制度の確立】
幕末、列強(露西亜、英国、亜米利加、仏蘭西 等)は日本に開国を迫り、それに抗しきれなくなった幕府は下田、箱館、長崎、神奈川 等を開港していきます。そして列強は各港に駐留軍を置くようになりました。それにともない列強の軍隊にとっては兵士の健康管理が重要でしたが、各港の遊郭では梅毒の蔓延が著しく、列強はその対策を幕府に強く要求していました。
1864年、英国では「性病予防法」が発布され、英国国内はもとより、世界各地の海軍駐屯地や植民地において英国軍兵士相手の女性に対して梅毒検査を強制的に行いました。
維新後の明治新政府にとっても、英国をはじめとする列強が強く要求する険黴制度(けんばい せいど 検梅ともいう)を確立する事が、近代国家に脱皮する上での急務であった為、全国の遊郭のあった場所に駆黴院を設置しました。滋賀県では明治九年(1867)に大津湊町(大津市中央一丁目)に仮駆黴院が設けられました。当初、駆黴院は娼妓を対象に性病の検査と治療を行う施設でした。その後、一般の病気や一般人の病人も対象とする病院となり今日の大津赤十字病院へと発展していきます。
【日本国における慰安婦制度の原初】
ある国の軍隊が他国の領土内に進駐し駐留するという事は、二国間の力関係において明らかに前者が後者より強い立場にあるという事を意味しています。幕末の日本が列強に開国を迫られ、しぶしぶ条約を結ばされ、開港地において外国人の居留を認めさせられました。更に1862年の生麦事件(薩摩藩の行列に騎馬の民間英国人が乱入したため藩士が切り殺した)等を理由に居留民を守るという口実のもと外国軍隊の駐留が行われたという史実は正にその事を示しています。
そして、外国軍の現地司令官(兵士の管理者)の立場から考えると、①「自軍の兵士の生活管理」を正しく行い、兵士らが駐留地の現地民とトラブルを起こさないように管理、指導する事が、どうしても重要な課題となります。特に②現地女性に対する不用意な性的衝動を厳格に指導する事は(ある局面においては)現地政府との交渉を滞りなく運ぶためにも必要な事でした。
又、③不用意に現地女性と交わり、梅毒をはじめとする性病に罹患する事を防ぐ為にも重要でした。ここに④兵士の相手をする女性の性病管理も行わなければならないという問題が生まれてきたのです。
これらの問題のすべてを解決する手段として、軍隊が管理する兵士相手の慰安施設及びその制度が必要となりました。これが慰安婦制度の始まりであり、日本における慰安婦制度の原初の形態は1860年の長崎においてみることが出来ます。
先に記した文久二年の生麦事件の2年前万延元年(1860)ロシア軍艦ポサドニク号が当時敵対関係にあった英仏の軍艦に追われて長崎港に避難するという事件が起こりました。(2014年の今年クリミア半島をめぐって米欧とロシアが対立していますが、この当時も1854年からクリミア戦争が始まり英仏とロシアは敵国同士であり、日本近海でも戦闘が行われていました。)そして、この事件があり、ロシア兵が長崎に上陸し居留する事を認めた結果、正に日本国における慰安婦制度の原初の形態とも言うべきものが出現したと考えられます。
このあたりの経緯を『日本梅毒史の研究』(福田眞人・鈴木則子編 思文閣出版 2005年)140ページから引用します。
(引用はじめ)
日本における梅毒検査(検黴)の始まりは、長崎におけるロシア兵を相手にした娼妓を対象にしたものだった。万延元(1860)年九月、長崎丸山遊郭の遊女たちに、ロシア軍艦ポサドニク号乗組員を相手にするために稲佐郷へ出稼ぎする許可が(引用者注:長崎奉行によって)与えられる。彼らは「ロシア女郎衆」、「マタロス女郎」(マタロスとはオランダ語のマドロス「海員」のこと)と呼ばれた。この「休息所」の設置と、娼妓の梅毒検査は艦長ビリーリョフの強い要求に従ったものだった。
中略
(引用者注:次に松本良順の自伝『蘭疇自伝』からの引用が書かれている。この人は当時長崎で医学伝習所所長を務めていたオランダ人医師ポンペの助手をしていた)
これよりさき露西亜は土・英・仏と兵を構え、露艦逐われて長崎港に来たり、船檣その他の毀損を修理せんことを乞う。すなわち上陸を許され、崎港の対岸なる護心寺に寓す。曠日無聊、兵卒等日々野径を逍遥し、発情の禁じ難き、動(どう)もすれば農家の婦女に戯る。艦長これを憂え、花柳の遊びは許さんとするも、梅毒の伝染を恐れ、娼妓の梅毒検査を行われんことを乞う。奉行岡部氏、検査のこと、可はすなわち可なれども、いまだ我が邦に行われざることなれば、遊郭の者、苦情を訴え紛擾を起こさんことを患い、予を招きてその計を問わる。余曰く、我に考うるところあり、よくこのことを弁すべしとて、遊郭花月楼(引田屋)に至り楼主を呼び、今度停泊せる露国人より奉行に乞うところのことを語り、かつ曰く、奉行の意は遊郭両町(丸山町、寄合町)を圧制してこのことを行うに忍びず、予をして力(ちから)可及的円滑にこれを計らしめんとなり。因って予が考案を述ぶべし。まず彼らが寓居する護心寺近傍において長屋を建築し、島原辺りの女子の醜美は論ぜず身体強壮なる者を撰び、十人余りを購い来たり(ただし平常の倍価を以て購うも可なり)、その長屋において露兵に接せしむべし。敢えて酒食を要せず、その揚代金不廉なるも可なり。(臨時の建築費を算すれば、これにたいする収入を計らざるべからず)
後略
(引用おわり)
ここでは、万延元年に長崎港に入港したロシア軍艦の水兵が長崎港周辺の一般婦女子に淫らな行為に及ぶので、それを防ぐために周辺の村落から娘を集め、新たに建築した長屋で梅毒検査を行った上で、ロシア水兵の相手をさせた。玄人の遊女ではなく素人の娘を撰んだのは、遊郭では花柳病が蔓延していたこと、梅毒検査に対する娼妓の反発が予想されたことからである。また、料金も通常の倍(別の個所では丸山遊郭の第一等娼の価四倍との記述も)も出したと述べている。
さらに、同書142ページから引用する。
(引用はじめ)
こうして娼妓の募集をするとたちまち十余人が集まり、彼らは稲佐(引用者注:長崎港近郊の稲佐郷)での営みにおいて収入多く、半年ばかりで相応の金を蓄え去ったという事である。さて、肝心の梅毒検査はどうであったか。
この時を以て計らずも梅毒検査を行う事を得たり。初二日はポムペ氏これを行い、次日よりは生徒ら(引用者注: 西洋医学を学ぶ日本人医師たち)二三日ごとに交代して行いたり。やがて艦の修繕全く成り、艦長はその属官を従え、予とポムペ氏を花月楼に招き、饗宴を開き、その周旋の労を謝したり。この時ポムペ氏笑って曰く、これみな露国の官費に出づ、なんの謝するところかあらん、と。予はまた今回検査法を実地に学び得たれば、他日これを我が国に行わんと私かに喜びたり。これ我が国にて駆梅の創始なり。
(引用おわり)
ここに記されている事を要約すると、遊郭花月楼の楼主は店の娼妓を出すのではなく、近郊の村落から素人娘を募集して、ロシア水兵の接待に当たらせた。それは通常の料金の何倍もの金額であった。素人娘からなるにわか娼妓たちも半年ばかりの特需が終わると相応の蓄えを得て帰った。また、ロシア水兵たちも安息と歓楽を得たのである。一方、ポンペ医師やロシア軍医から検黴方法を学んだ日本人医師は西洋医学を実体験する貴重な機会を得たので四者とも満足を得たと述べられている。
(つづく)