[155]なぜ、最澄(伝教大師)は長安にいけなかったのか?

ジョー(下條) 投稿日:2011/01/03 18:45

新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいします。

さて、副島先生がぼやきで、最澄が長安、今の西安(シーアン)には行かず、天台宗の本山で修行したとことを取り上げています。

<引用開始>
この伝教大師(でんぎょうたいし)ともいわれる最澄(さいちょう)は804年に中国に渡っています。同じ年に空海(くうかい)も渡っています。空海は長安、今の西安(シーアン)にまで行っています。1年半ぐらいしか行っていません。

それに対して、最澄に至っては1年も行ってないのではないかと思います。最澄はどこへ行ったかというと、天台寺から行っています。日本の留学僧が必ず渡ったところは寧波(ニンポウ、ネイハ)という町で、上海からずっと南のほうへ行って、かなり大きな湾がある杭州(こうしゅう)の側(そば)です。中国人はみんな白酒という強い酒を飲みますが、日本人は紹興酒(しょうこうしゅ)が大好きです。その紹興という町に近いと思いますが、この寧波という町に日本人の留学生は何があろうがたどり着くわけです。そこよりさらに南のところに天台山というのがあって、ここが天台宗の総本山です。そこから、お経やら戒律やらをもらってきたわけで、大したことはありません。本当は長安まで行かなければなりませんでした。
(ぼやき「1152」 夏の終わりに実感で京都調査旅行を語る(3完)から引用)
<引用終了>

なぜ、最澄は長安に行かなかった、あるいは行けなかったのでしょうか?

その答えは、当時の唐の標準の発音である、いわゆる「切韻(せついん)」が彼はできなかったからというのが、私の考えです。

一般には、日本では神代(かみよ)の昔から、方言はあるものの、すべての人が同じ言語を話していたということになっています。日本書紀も古事記もそういう前提で話が進んでいるので、疑う人も問題にする人もいません。

しかし、歴史学者の岡田英弘氏は、日本にも実際は多くの言語があり、しかも、その人たちは、他の言語をしゃべる人たちとは商売以外の交流はほとんどなかっただろうと述べています。

<引用開始>
それでは、668年に天智天皇が日本を建国する前、7世紀後半の韓半島の人口構成はどうだったでしょうか。636年に唐が編纂した『隋書』の「東夷列伝」によると百済の国人は、新羅人・高句麗人・倭人の混合であり、また中国人もいる。新羅の国人も中国人・高句麗人・百済人の混合である、と書いています。この記事では百済には倭人がいるのに新羅には倭人がいないのが目立ちます。これは新羅が、倭から百済をへて南朝にいたる貿易ルートを外れているのが原因だと思います。

それでは日本列島ではどうだったか。ここで、同じ『隋書』に伝えられる、609年に隋使・裴世清が立ち寄った秦王国のことを思い出していただきたい。博多の竹斯のすぐ次が秦王国であり、しかもその先十余国をえてから倭国の難波の津に到着することから考えれば、秦王国は瀬戸内海の西部沿岸の下関付近だろうと思いますが、そこに中国人だけの秦王国という国が実際にあったことは、疑う余地がありません。そうして見ると、韓半島だけでなく、日本列島も人口構成は似たようなもので、倭人以外の種族が混じって住んでいたことになります。
(『日本史の誕生』より引用)
<引用終了>

つまり600年頃、倭には中国人(秦人と漢人)・新羅人・高句麗人・倭人がいたことになります。彼らの何が違うのかといえば、風習もありますが、主に言語です。ちょっと長いですが、『倭国の時代』から引用します。

<引用開始>
たびたび説明したように、漢人・百済人の言語は楽浪群・帯方郡で土着化した中国人と中国化したわい人・朝鮮人・真番郡の土着民とかが使った河北・山東方言系の中国語の基礎の上に、後漢・魏・晋の河南方言と南朝の南京方言と、475年の百済の南下によって中国化した馬韓人の言語との影響が加わって出来た言語であり、倭国の首都の難波から河内・大和にかけて話されていた。

秦人・新羅人の言語は、それよりも古く倭国に入ったもので、辰韓・弁韓の都市国家郡を建設した華僑が話した前漢の陝西方言系の中国語を基礎とし、それに辰韓人・弁韓人の土語の影響が加わったものであったが、大和・河内では新しく侵入した漢人・百済人の言語に圧倒されて影が薄くなり、奥地の山城・近江を中心として話されていた。

倭人の言語は3つの中では一番古いが、畿内の諸国では、平野部に入植して来た帰化人の言語の影響で語彙も文法もひどく変わってしまっていた。

以上の3つの言語はそれぞれ話される場がちがう。それぞれの言語を話す人々は、別々の社会を構成していて、コミュニケーションの必要があれば、ブロークンな中国語と倭語をちゃんぽんに使って、やっと用を弁じたのである。
(『倭国の時代』から引用)
<引用終了>

主に分ければ、倭には3種類の言語、つまり漢人(あやびと)・百済人の言語、秦人(はたびと)・新羅人の言語、倭人の言語があったわけです。そして彼らは「別々の社会を構成していて、コミュニケーションの必要があれば、ブロークンな中国語と倭語をちゃんぽんに使って、やっと用を弁じ」ていました。

さて、これらは違う言語ですが、特にちがうのが発音あるいは発声です。これは現代の我々の漢字の読み方にも残っています。

例えば「行」という漢字。これは「ぎょう」とも「こう」とも「あん」とも読めます。「ぎょう」を呉音、「こう」を漢音(かんおん)、「あん」を唐音(とうおん・とういん)といいます。また、他にも、呉音が入る前の古い読み方である古音というのもあります。

例えば「妙法蓮華経」は、呉音では「みょうほうれんげきょう」ですが、漢音では「びょうほうれんがけい」になります。唐音では「びょうはれんがきん」だそうです。

呉音は、名前からいってどうやら南方系の発音のようですから、先ほどの百済人・漢人の系統の言語でしょう。

一方、長安などの唐の中国語の発音が漢音です。また漢音の発音、発声、読み方を含めて切韻(せついん)といいます。後で述べるように新羅人・秦人の言語はこれに近いようです。

ちなみに唐音というは、名前と違って、もっと新しい発音で、明から清の頃の発音をいうそうです。

日本には、この切韻の発音をするための「音博士」という制度がありました。どうやら、当時、日本では呉音の発音が主流であり、漢音は特別な人しか使えなかったようです。

では、最澄はなぜ長安までいかなかったのでしょう?実は、最澄の母親は漢人(あやびと)です。上記で言えば、百済・漢人系の呉音の発音をしていた人たちです。ですから、基本的に中国南東部のことばしか理解せず、また切韻もできなかったということになります。

副島先生によれば、通訳(義真という人)がいたというから、切韻ができる人間をつれていったのだと思います。

「いや、そんなこと言っても、中国に行けば、発音を覚えてなんとかなるでしょう」と思う方もおられるとおもいます。そこで、空海といっしょに西安に修行にいった橘逸勢(たちばなのはやなり)という人の文章があるので引用しておきます。

<引用開始>
空海と対照的なのが、入唐も帰国の一緒だった逸勢である。空海は唐で逸勢の代筆をした。

<中略>

中国とわが国では言葉が違っています。私逸勢はまだ中国の言葉が不自由で、学校で勉学に励むことができません、仕方がないので、以前学んだものを復習しています。また、琴や書を学んでいます。
(『古代日本人と外国語』から引用)
<引用終了>

「私逸勢はまだ中国の言葉が不自由で、学校で勉学に励むことができません」と正直に書いています。したがって、長安に行っても中国語(ここでは切韻)がわからなければ、「以前学んだものを復習する」しかないわけです。

いずれにしても、空海といっしょに長安に行った逸勢の手紙は、長安に行かなかった最澄の選択が正しかったことを如実に物語ってくれています。

さて、それでは、なぜ一方の空海は切韻ができたのか?という話になります。

さきほど、倭では3種類の言語に分けられるという話をしましたが、この中で、特に重要なのが、秦人が話していた言語です。609年に隋使・裴世清が立ち寄った秦王国では、「その人華夏と同じ」であったと述べています。この華夏というのは「華(はな)のような中国の中心部」という意味で、当時の長安と同じということです。

つまり、倭にいた人の中でも、秦人であれば切韻をなんとか理解できたことになります。ただし、668年の日本誕生以来、秦人・新羅人は必死に日本人として同化していったそうですから、800年のころに話せた人は、そうたくさんはいなかったでしょう。

そして日本人で長安に留学して活躍できた僧や留学生は、この秦人の系統の人たちだと思います。例えば、弘法大師の出身は多度津というところの近くですが、この多度津も明らかに秦人の町です。また吉備真備(きびのまきび)は吉備下道の人です。この下道の古い人は吉備上道と呼ばれていますが、彼らは秦人であったということがわかっています。

この秦人は、今では秦氏とよばれ、なにかあやしい民族のように思われています。しかし、言語が当時の中国の中心部と同じだったのだから、彼らこそが、隋・唐からの最先端の土木・工芸・医療技術の担い手だったのでしょう。今の日本で、英語ができると最新の社会科学が学べるのと全く同じです。

下條竜夫拝