[153]アメタラシヒコとは誰だったのか?
あと、5時間ほどで今年もおわりですが、今年の最後に歴史について投稿します。
表題のアメタラシヒコという大王(おおきみ)を知っている人は、歴史通だと思います。この大王は日本書紀にも古事記にもでてきませんが、中国の歴史書である隋書の倭国伝にでてくる倭の王です。
隋書の該当の箇所を訳したものをそのまま貼り付けておきましょう。
<引用開始>
開皇20年、俀王あり、姓は阿毎(アメ、またはアマ)、字は多利思北孤(タリシヒコ、又はタリシホコ)、阿輩雞弥(オオキミ)と号す。
<中略>
王の妻は雞弥(キミ)と号す。後宮に女六七百人あり。太子を名づけて利歌弥多弗利(ワカミタフリ)となす。
<中略>
大業三年,其の王多利思北孤,使いを遣わして朝貢す。使者曰く『海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。故に遣わして朝拝せしめ,兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ぶ』と。
<引用終了>
この頃は、推古天皇の時代つまり聖徳太子の時代であり、当然、この名前の天皇はいません。通説では、アメタラシヒコは聖徳太子であり、聖徳太子を倭王だと中国側が勘違いしたものだと言われています。また、倭には二人の王がいて、タラシヒコは九州の王であったなどという説もあります。
歴史学者の岡田英弘氏は「日本史の誕生」の中で「中国側にはわざわざ倭人風の名前をつけてまで、ウソをつく理由は何もない、むしろ、日本書紀がなにかを隠しているのだろう」と論じています。
それではアメタラシヒコは一体だれなのでしょうか?本当に九州の王なのでしょうか?岡田英弘氏は別の本でまたふれると書いていましたが、まだあきらかにはしていないようです。
仮にアメタラシヒコという大王の存在を仮定すると、いくつか重要な事実が浮かび上がります。
まず、日本書紀は、この時代の事実を改竄(かいざん)していることになります。実は、日本書紀は、「中国風でかつ漢音を含んだ漢文」と「倭習と呼ばれる倭人色がつよくかつ倭音・呉音を含んだ文」の2つに大別できます(『日本書紀の謎を解く』より)。これは、書き手が二人いたと解釈されていますが、上から考えると漢文で書かれた文を倭人色の強い文で改竄(かいざん)したことになります。
この倭人色の強いところは、崇峻天皇の後半部、推古天皇、舒明天皇記だそうです。したがって、日本書紀が歴史時代(歴史書にあったことが、ほぼ間違いなくおこっている時代)に入るのはその後、つまり皇極天皇以下ということになります。
また、アメタラシヒコの存在を仮定すると、アメタラシヒコが大王になった後、事実上、天皇家は「天(アマまたはアメ)」という姓(名字)をもっていたということがわかります。実際、「天」という和風諡号(わふうおくりごう)を持った天皇が5代にわたって続いています。順に並べてみましょう。
天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)皇極天皇
天万豊日(あめよろづとよひ)孝徳天皇
天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)斉明天皇
天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)天智天皇
天淳中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天武天皇
ちなみにこの後の持統天皇から「天」という姓は無くなります。
隋書や唐書にも、はっきりと「倭の王の姓は阿毎(アマ)」と書いてあります。ですから、「天皇家は万世一系であり、姓はない」とされていますが、この時代には姓があったと考えてもいいでしょう
実は新羅もこのあたりの時代から、金官伽耶の歴代王朝の名前であった「金」という名前を自分たちの王家の名前として用いています(『日本史の誕生』より)。ですから、同時代のことですから、別に「天」と姓を名乗ってもおかしくないことになります。
また、この後の天皇は皇極天皇=斉明天皇ですが、彼女の和風諡号が「あめとよたからいかしひたらしひめ」、つまり短くすると、「アメ・タラシヒメ」です。したがって皇極天皇はアメ・タラシヒコの妃か娘と考えていいでしょう。状況から考えて何人かいたうちの最後の王妃だと私は思います。
この「天」という王家は、北斗七星を死ぬほど愛し、自分たちの守護星としたと思います。それは北斗七星には「天」という字が入る星が4つもあるからです。アルファ星(北斗七星の枡(ます)の一番端の星)から順に、天枢、天璇(てんせん)、天璣(てんき)、天権という名前です。このような星座を他にありません。
また、北斗七星の枡(ます)で囲まれたところの星群にも「天理」という名前がついています。インターネットで調べると天理というのは天命と同じような意味を持つ言葉らしいです。
吉野裕子という歴史学者は、伊勢神宮の天皇の儀式である新嘗祭などは北斗七星の動きと関連していることを明らかにしています。これは多分、「天理つまり天命を柄杓(ひしゃく)を逆さまにして北極星に返す」というのと、「北極星から落ちてきた天理(天命)を受け止める」という二つの動作を表現しているのだと私は考えています。
実は、壁画で有名な高松塚古墳には星図がありますが、ここには、北斗七星が描かれていません。北極五星が書かれているので、北斗七星とよく勘違いされますが、描かれていません。スペースがたくさんあるので、ちょっと描けばいいから、はがれたのかもしれないと考え、その跡を探したらしいのですが、本当にないそうです。
ここから、高松塚古墳埋葬の時期に政治思想上の大転換があったことがわかります。天皇大帝または天皇の出現です。
さて、話を元にもどして、実はこのアメタラシヒコは、死んだという記録がありません。旧唐書では、632年に高表仁(こうひょうじん)という人が唐からの使者として倭を訪れています。この時は、太子と言い争いになり、結局、唐の帝からの文書を渡すことなく帰っています。この太子は、さきほどでてきたアマタラシヒコの皇太子ワカミタフリと考えることができますから、これはアマタラシヒコがこの頃でも生きていただろうということを意味します。副島先生はこの事実から、645年に乙巳の変で殺された蘇我入鹿をアメタリシヒコと認定しているわけです。達見だと思います。
しかし、私は「帝国・属国論」から違う可能性を見ています。つまり、アメタラシヒコはすでに死んでいたが、太子のワカミタフリは親高句麗政策を支持していたため、王の称号を唐からもらえなかったという可能性です。帝国・属国論では「倭王」という称号は帝国あるいは周辺国からの認知がない限りもらえません。仕方なく名目上、大王になったのが、皇極=斉明天皇です。多分、祭主に近い存在だったのでしょう。大王が決まらないとき、祭主が最高権力を握るのが卑弥呼以来の伝統です。
実際、孝徳天皇になって親唐路線になると男の王に戻っていますし、逆に反唐に戻ると女王(斉明天皇)が即位します。
これは、新羅でも状況が同じで、その頃は新羅も、やはり反唐・親高句麗でした。従って、真平王(しんぺいおう)という新羅王が死んだときに、善徳(そんどく)という女王が即位しています。その後も真徳という女王で、男王が新羅王になれたのは、親唐である金春秋という武烈王(ぶれつおう)からです。
この説がわかりやすいのは、日本書紀の聖徳太子と推古天皇の関係が、ワカミタフリと皇極天皇の焼き直しであった見ることが出来るからです。もちらん、ワカミタフリ=蘇我入鹿=聖徳太子、アマタリシヒコ=蘇我馬子です。蘇我蝦夷という人が入鹿と馬子の間にいたと歴史上されていますが、副島先生によると彼の存在は、疑問視されているそうです。
さて、以上のことを仮定するとおもしろい事実がひとつ浮き上がります。蘇我馬子には別にひとり息子がいるのですが、名前を「善徳」といいます。上に出てきた新羅女王が同じ諡号(おくりごう)を持っています。しかも、ふたりは全く同世代。2つの国の王家に同じ名前の子どもがいるのは偶然でしょうか?
つまり、新羅の歴史とは全然あわないのですが(例えば、善徳というのは諡(おくりな)で別に名前があった)、新羅の善徳女王、真徳女王というのは、本当は蘇我馬子と皇極天皇の娘だったのではないでしょうか?
そう考えると、皇極天皇の異常とも思える行動の理由が見えてきます。この善徳女王は戦場で死んだとされていますが、実際は金春秋に殺されたのでしょう。次の真徳女王も同じです。そうしないと、親唐であった金春秋が突然王になれるわけがありません。これを知った皇極天皇は激怒し、再び斉明天皇として重祚(ちょうそ)し、北九州までわざわざ出向いて新羅への復讐を誓った。こう考えれば、あの皇極天皇の異常な行動は、娘を殺された母親の復讐だったと考えることができます。歴史通の方だったら、「証拠はないけで、そう考えるとわかるなあ」と思われるのではないでしょうか?
下條竜夫拝