[1524]柿本人麻呂の正体を暴く14
1522の続きです。
『古今和歌集』の仮名序と真名序の柿本人麻呂と『万葉集』の成立事情を、後世の研究者が、誤りとしなければならなかった訳。
「仮名序」は、「奈良の御時に、正三位の柿本人麻呂が居た」と記す。しかし『万葉集』の中では、柿本人麻呂は奈良遷都以前に死んでいたことになっている。
柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて臨死(みまか)らむとする時、自ら傷みて作る歌。
鴨山の 岩根し枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ(223)
柿本朝臣人麻呂の死(みまか)りし時、妻依羅(よさみ)娘子の作る歌二首
今日今日と わが待つ君は 石川の 貝(一に云う、谷)に交りて ありといはずやも(224)
直(ただ)の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ(225)
上の歌群が、奈良遷都(710年)以後の歌の前に配置されていることから、人麻呂は、奈良遷都以前に官位六位以下の下級地方官吏で死亡したと後世の研究者たちは決め付けてきた。その通説からすれば、『古今集』の仮名序が、「奈良の御時に、正三位の柿本人麻呂が居た」と言うのは、誤りとせざるを得ない。通説では、奈良の御時には、柿本人麻呂は既に亡くなっているのだから。それで、後世の学者たちは「奈良の御時」は、文武朝(697~707)のことである、として、仮名序の作者の誤りとしてきた。
しかし、仮名序を書いたのは紀貫之である、当時を代表する学者で歌人であった。紀貫之ほどの人物が、勅撰集の序文に誤りを書き残すなど云う愚劣な失策を行ったのだろうか。
私は『万葉集』の(207)柿本朝臣人麻呂、妻死りし後、泣血哀慟して作る歌、から(227)或る本の歌に曰く、までを丁寧に読むことで、人麻呂は石見国の鴨山などで死んではいない。石川の貝(一に云う、谷)は、石川郎女であることを発見したのである。柿本人麻呂とは、大伴安麻呂の号(ペンネーム)であることを論証してきた。その大伴安麻呂は、和銅七年(714)に、正三位大納言兼大将軍で薨去している。安麻呂は、奈良遷都後も生きていた。紀貫之は、人麻呂の正体を知っていた、と言うだけのことではないのか。『古今和歌集』が撰呈されたのは、大伴家持が亡くなって僅か百二十年後である。紀貫之が、柿本人麻呂の正体を知っていたとして、何不思議があろうか。しかし、後世の学者たちは、『万葉集』の題詞と歌から人麻呂の生涯を推測するしかなかった。貫之に伝えられていた伝承が、途絶えてしまったのだろう。貫之の書いた「仮名序」の誤りとするしかなかった。
『万葉集』は、大伴家三代(安麻呂、旅人、家持)に受け継がれた私家歌集である。
次回は、真名序に付いて書きます。