[1521] 靖国参拝に反対した昭和天皇の真実の御製(ぎょせい)の歌の経緯(きいさつ)の重要な文を載せます。

副島隆彦 投稿日:2014/01/19 06:57

副島隆彦です。  今日は、2014年1月19日です。

 私たちの学問道場の大講堂である、今日のぼやき に載った、石井利明君の、「福沢諭吉と ユニテリアン教会=フリーメイソンリーの深い関係」論文 は、大変すばらしいものなので、私、副島隆彦が、昨晩、再度、これに勝手に手を入れました。会員たちで、本当に知性(=知能)を伴(ともな)って政治思想(ポリティカル・ソート)の文章を読む力のある者は必ず、この石井論文を読み直しなさい。

 さて。 安倍晋三の内閣(=政権)は、昨年末の靖国参拝で致命傷を負った。“高転(たかころ)び”して、有頂天の絶頂から一気に転落しつつある。この流れはもう後戻りできない。安倍晋三は、世界、とりわけアメリカを敵に回したので、もうこのまま政権を維持できない。

 おそらく4月からの消費税の8%への値上げで景気がさらに悪化したことを理由として、アベノミクスの失敗ということを口実( 口実にもならない、みっともない口実)にして退陣するだろう。 そうしないと後(あと)を継ぐ者にまで、馬鹿げた責任が続く。後の者は、当然、「安倍さん。あなたが蒔いた禍(わざわい)は全部、あなたが持っていってください」と言うに決まっている。

 安倍政権の内部は、すでに相当に沈鬱なムードになっており、自分たちへの葬送行進曲が流れている。去る12月26日の靖国参拝を決断し強行した、安倍晋三個人の責任を、周囲の者たちは、公然と追求できない。「総理。私たちがあれほど慎重に行動してくださいと言ったのに」と、弱弱しくでも引導を渡すのが、菅義偉(すがよしひで)官房長官の仕事だ。 

 安倍側近を自任する者たちは、安倍と一緒に討ち死にするしかない。もう、逃げ出す準備をしている者たちも出ているだろう。 

 以下の日経新聞の記事の末尾に、ちらりとあるごとく、萩生田光一(はぎうだこういち)という首相補佐官(=側近)を自認する政治家は、靖国参拝を安倍に急(せ)き立てた強行派であるから自分も討ち死にする覚悟だ。 

 私、副島隆彦としては、安倍晋三が7年前と同じ「お腹の調子が悪い」を理由に、政権放り出しをしないことを祈る。世界に対して、安倍個人がみっともないを通り越して、本当に日本と言う国がみっともない国だ、ということになる。 

 昨日(18日)、バラク・オバマは、ホワイトハウスの執務室から、直接、アメリカ国民に向かって、30分間に渡って、ものすごい演説をしたようだ。記者たちからの質問には一切答えない、という異例の決然たるものだったようだ。

 内部告発者、エドワード・スノーデンによる、アメリカ政府の最高度の安全保障に関わる国家機密(全スパイ・マスターたちの顔ぶれ、経歴までが露呈。イスラエルの機密情報も漏れた)の持ち出し、流出で、相当の打撃を受けている。オバマは、公然と居直ることを決断したようだ。

 まるで「これからは、自分は、世界の独裁官(どくさいかん)になる、とオバマは、宣言したようだ」との評価を、ある人物から私は貰(もら)った。

 その影響が、以下の、日本のワルの外務官僚のトップの、谷内正太郎(やちしょうたろう)への「異例の厚遇」(日経新聞の表現)となって表れている。ジョン・ケリー国防長官と、チャック・ヘーゲル国防長官は、谷内を 安倍政権を無視して、直接、自分の配下に加えることを決断している。 

 ワルの官僚の谷内(やち)は、安倍政権のバカな政治家たち(芸能人並みの知能の連中)を見捨ててアメリカに直属すると決断した。アメリカもそれを受け入れた。

 谷内(やち)は、自分が日本版NSC(エヌ・エス・シー、国家安全保障会議)のトップである国家安全保障局長(こっかあんぜんほしょうきょくちょう)に年末に正式に就任している。だから、安倍政権や自民党に対してもアッカンベーをしても構わないと決めた。「国家の利益ためには、政権なんかいくつ倒れても構わない」という藤原不比等(ふじわらのふひと)が7世紀(西暦668年)から始めた律令官僚支配のやり方を公然と実行した。

(転載貼り付け始め)

〇「米、谷内氏を異例の厚遇 「靖国」後の局面転換狙う 」

2014年1月19日 日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS18016_Y4A110C1PE8000/

 オバマ米政権は17日、訪米した谷内正太郎・国家安全保障局長を異例の厚遇で迎えた。安倍晋三首相の靖国神社参拝によってすきま風が吹いた 日米関係の局面転換を印象付けるとともに、首相の再参拝をけん制する思惑があるからだ。アジアで台頭する中国も意識している。

 「excellent(素晴らしい)」。谷内氏は米国務省の玄関口で、中国メディアからケリー国務長官らとの会談の感想を問われ、こう即答した。

 谷内氏はケリー長官、ヘーゲル国防長官、(スーザン・)ライス大統領補佐官(国家安全保障担当)と相次ぎ会談した。日米の国家安全保障会議(NSC)の 連携を確認したライス氏との会談は織り込んでいたが、主要閣僚のケリー、ヘーゲル両氏との会談の実現は谷内氏本人にも意外だった。

 首相参拝の「真意」を説明するためワシントン入りした日本の要人が会った米政府の顔ぶれをみれば、厚遇ぶりが分かる。超党派の日米国会議 員連盟(会長・中曽根弘文(ひろふみ) 元外相)はラッセル国務次官補(東アジア・太平洋担当)。首相の実弟、岸信夫(きしのぶお)外務副大臣はバーンズ国務副長官だった。

 谷内氏への厚遇は日米関係の局面転換を印象付ける。米国のアジア戦略は同盟国である日本などとの連携が欠かせない。首相参拝によって日米 間に生じたさざ波が大きくなれば、戦略の空洞化が進む。中国や北朝鮮のさらなる増長を招きかねないとの判断だ。

 知日派のマイケル・グリーン米戦略国際問題研究所(CSIS)上級副所長は、首相参拝の影響は認めつつも「環太平洋経済連携協定 (TPP)や、日米防衛協力のための指針再改定などへの取り組みは米国の国益にもなる」と訴える。

 首相への影響力がある谷内氏を通じた再参拝への圧力ともとれる。「平和主義からの離脱」(米紙ニューヨーク・タイムズ)など米メディアは 首相参拝と軍国主義の復活を絡(から)めている。再参拝すれば、米国世論の警戒を高める恐れがある。

 もう1人の知日派、アーミテージ元国務副長官も 「首相は選挙の公約を果たした。もう終わったことだ」と、再参拝はないとの認識を強調する。

 中国は米紙ワシントン・ポストに寄稿し、首相批判を展開。再参拝となれば中国に対日批判の材料を与え、日韓関係の改善も遠のかせる。中国 は東シナ海上空の防空識別圏に続き、南シナ海では外国漁船の操業規制を強化した。

 中国を勢いづかせる流れを断つため、日米の仕切り直しに向けたきっかけをつくりたい--。そんな米側の希望をよそに、日本からは首相参拝 時の米側の「失望」表明について「共和党政権ではこんな揚げ足を取ったことはなかった」(自民党の萩生田光一総裁特別補佐)との声が上がる。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。
 さあ、このあとは私が先週、約束した、私が、2007年に書いて出版した、本の中の「ザ・カルト・オブ・ヤスクニ」論文の 重要場面を、弟子たちが復刻してくれたので、ここに載せます。私のこの文は、以後、日本の戦後史の歴史資料に属するものとなるだろう。

(転載貼り付け始め)

『最高支配層だけが知っている 日本の真実』(成甲書房、2007年刊)所収

「 安倍晋三の奇怪な変節と「ザ・カルト・オブ・ヤスクニ」」

 副島隆彦

 (この本の P.25~P.28 を転載する )

 「昭和天皇のコトバ・富田(とみた)メモ」は米国の意思がリークさせた

 安倍晋三(あべしんぞう)首相は、昨2006年の9月20日に自民党総裁選に圧倒的な強さで勝利して、そのあと、9月26日に、国会で首班指名(しゅはんしめい・総理大臣に当選すること)を受けて組閣した。

 そのあと、すかさず、10月8~9日には、アメリカではなくて、中国と韓国を訪問して胡錦涛(フー・ジンタオ)国家主席、盧武鉉(ノ・ムヒョン)韓国大統領と首脳会談を行なった。まずアメリカに行くのではなくて、中国と韓国に行ったのだ。

 この最中の9日に、なぜか、北朝鮮がうまい具合に、例のお粗末な核実験(らしきもの、その後も浮遊核物質が検出されないので、失敗説もある ) をやってくれた(これにも、実は、裏がある)。これに世界の目を奪われて、安倍晋三の外交行動の奇怪さは露見しないで済んだ。

 安倍晋三の表情は、このころから、うつろになり、全く冴えなくなった。テレビで見ていても気の毒な感じになってきた。自分は一国の宰相である、という気迫が急速に消えて無くなった。加えて、しどろもどろの国会答弁をするようになって、「安倍は、7月まではもう少しは威勢が良くて、元気だったのに。一体何があったのか」と新聞記者たちまでが、噂を始めた。一国の責任者としては、あまりにしょんぼりしている。もともとはこういう人ではない。タカ派のバリバリの右翼人間である。

 2006年7月20日に突如、アメリカベったりで親米派の代表のような日本経済新聞に、富田朝彦(とみたともひこ)元宮内庁長官のいわゆる「富田メモ」が、一面のトップで載った。それは、昭和天皇の、「今のような、靖国神社には、(1978年以来、私は)お参りできない」という発言が書いてある日記であった。

 このことは、昭和天皇のお気持ちとして、今の靖国神社では、私は参拝できないし、公式の戦没者の国家的な追悼施設としての国際社会の理解も得られない、という天皇によるはっきりとした意思表示であった。なぜ、あの時、日経新聞に「富田メモ」という形で、靖国神社問題が噴出したのか。その謎が今、私は解けたのだ。

 昭和天皇の靖国神社に関連した発言の「富田メモ」からの、昭和天皇の発言の全文は次のとおりである。

(引用開始)

   私は、或る時に、A級 (戦犯たち14人) が合祀され、そのうえ松岡(  洋右 まつおかようすけ)、白鳥( 敏夫 しらとりとしお)までもが。 筑波 (藤麿 つくばふじまろ 前の靖国神社の大宮司 ) は慎重に対処してくれたと聞いたが、松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と。

  松平( 慶民 まつだいらよしたみ )は平和に強い考(え)があったと思う のに、親の心(を)子(の) ( 松平芳永 まつだいらよしなが 宮司 )  が知らず(だ)と(私は)思っている。だから 私 (は) あれ (1978年) 以来参拝していない。それが私の心だ。

   「昭和天皇、合祀に不快感靖国のA級戦犯に触れ」共同通信、2006年7月20日配信 

(引用終わり)

 昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀に不快感を示す発言をしていたとする当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人) が書き残したメモがあることが関係者の話で20日、分かった。

 昭和天皇は1978年にA級戦犯が合祀されて以降、同神社に参拝していない。メモは、明確になっていないその意図を探る貴重な資料であるとともに、小泉純一郎首相の靖国参拝にも影響を与えそうだ。

 関係者によると、富田氏は同庁次長時代を含め、昭和天皇との会話を手帳などに書き留めていた。靖国発言のメモは88年4月28日付。メモによると、昭和天皇は「私は或(あ)る時に、A級が合祀され、その上、松岡、白取までもが」「だから私(は)あれ以来参拝していない。それが私の心だ」などと語ったと記されている。

 「松岡」「白取」はA級戦犯としてまつられている松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐イタリア大使を指すとみられる。  (共同通信、同前)

(引用終了)

 このように、昭和天皇ははっきりと自分の考えを述べている。この天皇の意思と考えは、明らかにA級戦犯の合祀への反対である。平和を強く願う気持ちが表われている。そして新たな戦争に加担するような動きに対して強く戒めている。戦後の指導者たちが、軽率な行動をとってはならないと警告している。

 このあと、記者団に質問されて、小泉純一郎首相は、「人 (昭和天皇のこと) にはそれぞれの考えがある」と言い放って、昭和天皇の意思 (大御心 おおみこころ)を無視して、8月15日の首相参拝を強行した。

 安倍晋三も同様であり、すでに5月に内閣官房長官として、こっそりと参拝していた。このことも、どこからの筋か不明だが、露見した。明らかに日本の保守勢力内部に大きな分裂と抗争の暗闘がある。それが、この富田メモの公表という時点で、はっきりと表に出た。

 この7月20日の日経新聞の富田メモの突如の公表は、アメリカの意思も入っている。アメリカは、小泉と安倍に、靖国神社に公式参拝するな、アメリカは反対である、というはっきりとした意思表示をこの時、出したのである。小泉と安倍は、これに逆らった。

 その前の五月に、日本の財界は、経団連と経済同友会の共同の声明で、小泉首相の8月15日の靖国参拝を中止するように求めた。それは、アジア諸国への配慮であり、中国との良好な関係が日本にとって重要だ、という趣旨からだった。この動きに対して、保守言論雑誌に、「金のことしか考えない財界人たちは黙れ。中国で金儲け(営利活動)をすることしか考えない財界人たちを批判する」という評論文がいくつも載った。

 根っからの親米派であるはずの財界人たちを、日本民族派の保守言論人たちが糾弾(きゅうだん)する、という奇妙な構図が見えた。この時に日本国内に走った保守派内部の亀裂と分裂線が、その後の進展を物語っていた。

(ここまで 副島隆彦 筆『・・・日本の真実』のP.25~P.28から引用 終わり)

(ここから 『・・・日本の真実』のP.58~P.61から引用はじめ)

「産経・古森(こもり)公開質問状」と「元国連大使」の愚かな行動

  そしてちょうどこの時期に、前述した産経新聞の古森義久(こもりよしひさ)記者(ワシントン特別論説委員) による、玉本偉(たまもとまさる)外務省・国際問題研究所(略称国問研=こくもんけん=)研究員への言論弾圧事件が起きた。

 それは、2006年8月27日付けの「ワシントン・ポスト」紙に載った、スティーヴン・クレモンス(ニューアメリカン・ファウンデーションという研究所の研究員)の筆による、“ The Rise of Japan’s Thought Police “ 「日本で思想弾圧警察の動きが起きている」と題する、古森氏の行動を批判する記事であった。

 それは、5月13日付けの、外務省の外郭団体の外交研究所である「日本国際問題研究所(JIIA) のインターネット上への論文提供のコーナーでの、玉本偉( たまもとまさる)氏の文章を槍玉に挙げてのものだった。

 玉本研究員の論文は、周囲の反対を押し切っての小泉首相の靖国参拝の強行が、日本の右傾化を招き、この「ザ・カルト・オブ・ヤスクニ」の勢力が台頭して、日本がアジア諸国で孤立する道を選びつつある、という危惧を表明した、きわめて端正(たんせい)な日本分析であった。そして、日本の右傾化が進めば、これに対する揺り戻しが国内から起きて、やがて穏健な勢力によって軌道修正が図られるだろう、という冷静な客観予測が書かれていた。

 ところが、これに対して古森氏が筆誅(ひっちゅう)を加えた。ちょうど、自分がアメリカとの橋渡しをして安倍政権を誕生させる原動力のひとつになったことへの自負で有頂天になっていた時だ。力が余って、それで、この玉本論文を、「中国に迎合する反日の立場からの偏(かたよ)った言論だ」として論難した。

 そして、「外務省の補助金で運営される研究所なのに、現在の日本の外交や安保を否定するような極端な意見の持ち主(玉本研究員のこと) に (海外向け発言を) 任せる理由は何なのか。この『稿の結びを佐藤行雄(さとうゆきお)理事長への公開質問状としたい」 と書いた。

 この記事に死ぬほど驚いて、慌てふためいた日本国際問題研究所の佐藤行雄理事長 は、我を忘れて、冷静さを失い、その生来の身に染みた官僚体質と事なかれ主義のせいで、この産経新聞の古森記事に動転して、いちもにもなく同意して、勝手に自分だけの愚かな行動に突っ走った。そして、このネット上への英文での日本からの意見と情報の発信の場を自ら、即刻閉鎖して、玉本氏を譴責(けんせき)して、それで、それまでのすべての発表記事と英文論文までも削除の処分にした。

 ところが削除しても削除できないのが「ミラーサイト」という複製機能をもつインターネットの仕組みだ。この愚か極まりない行動が、ただちに世界中の日本研究家たちから、一斉に批判の対象となった。

 政府のお金が出ている研究所の言論と研究の成果を、理事長が自分の手で無かったことにして全面削除にして隠滅してしまう、というのは、愚の骨頂を通り越して、狂気の沙汰である。この佐藤行雄という外務官僚 (彼は国連大使の経験者だというから、主流派に属するそれなりの出世組なのだろう) は今、外務省内で、「佐藤はとんでもない判断違いをした」として軽蔑の対象の極致にある。

 佐藤理事長は8月18日付けで、産経新聞に坊主俄懺悔(ぼうずざんげ)の謝罪文を記事の形で載せた。産経の記者が「こんな文を本当に載せていいのですか」と念を押したそうだ。が、本人は、とにかく自分の責任を軽くして逃げ延びたい一心で、それで大きく墓穴を掘ることになる。およそ言論や研究機関の長になるにふさわしくない、いかにも日本的な役人の盲目的な猪突(ちょとつ)行動である。

 自分が信頼して雇った有能な世界基準の英文で発信できる研究員の言論を、守ろうとするのではなくて、逆に部外者の右翼新聞の好戦派の大物記者が書いた、それこそ偏った見解に全面敗北した。それで、すでに発表した記事まですべて削除処分にするなどという、許すべからざる行動に出たのである。

 ここで念を押すべきは、一民間の新聞紙の言論が、政府の補助金で出来ている国の研究機関の言論に対して言論弾圧をする、ということは法律学的に成り立たない。言論弾圧なるものは、政府機関や公務員が、「この評論文は我々、政府にとって好ましくない」などと発言することで成り立つものだ。

 民間人どうしの間の理論の衝突は、それは、「互いの意見の相違。考えのくいちがい」と言うのであって、言論弾圧とは言わない。しかし、政府への自分の影響力を嵩(かさ)に着て、古森氏が、ある論文や記事に対して、「それは反日的であるから、政府の子会社の機関は、その者を辞めさせよ」と書いて、公開質問状とするなどと威張り腐るのは、これは、単なる言論の自由(権)の行使ではすまない。自分を大人物だと思い違いした権力人間だ。

 そして前出のクレモンスの反撃記事が出た。このニュー・アメリカン財団(ファウンディション)のクレモンス研究員による更なる古森批判の文は大きな反響を呼んで、世界中の日本研究家(ジャパン・ハンドあるいはジャパン・エキスパート)たちの共感を呼んだ。

 そして、これに対して古森氏が今度は、「私は、右翼過激勢力など支援していない」、 ” I Don’t Back Extremists. ” というクレモンス研究員への反論文を書いて、ワシントン・ポスト紙に投稿したのが11月11日である。しかしもう遅い。

 今さら古森氏がいくら言い訳をしても、彼がやった卑怯で愚かな行動は取り消せない。ワシントンDCのネオコン勢力の政府高官や研究所員たちと幅広く付き合い、「ネオコン派などというものは存在しない (私たちは、正義そのものなのだ)」 というような、独善と思い上がりの文章ばかりを古森氏はずっと書いてきた。そろそろ彼の新聞記者人生もここらが年貢の納め時だろう。

 このような事件が安倍政権の誕生の背後で起きていたのである。小さな筆禍(ひっか)事件のように思われるが、この事件が、安倍政権の船出に大きな影を落とした。「安倍たちは、どうも恐ろしい東アジア独特の宗教団体にからんでいるのではないか」という疑いが、アメリカの政・官界で今、囁(ささや)かれているのである。

(ここまで『・・・日本の真実』P.58~P.61 から引用終わり)

 副島隆彦です。 このように私は、2007年刊行の、私と弟子たちの論文集で書いた。この本は、今でも私たちの学問道場のサイトで買える。出版社に注文してもいいし、アマゾンの中古本でも安くで買えるだろう。読みたい人は買って読んでください。

 私は、自分が2007年に書いたこの「安倍晋三とザ・カルト・オブ・ヤスクニ」論文が、やがて日本政治史の歴史資料となる、と自負する。

 そして、あと一本、歴史資料になるであろうと思われる雑誌記事を、その全文を載せる。

 この「選択」誌 という政治経済の月刊の高級専門誌(馬鹿ではない日本の企業経営者層5万人に定期購読されている)の昨年の2月号に載った連載の評論文である。書き手(筆者)は、岩井克己(いわいかつみ)という“皇室ライター”と呼ぶべきか、朝日新聞の記者で長年、宮内庁の記者クラブに所属したであろう人が書いた素晴らしい文である。

 私、副島隆彦は、以下の文を、著者である岩井克己氏には、無断で以下に転載する。これは非礼なことであり著作権法違反であるから、岩井氏本人から抗議が来たら、謝罪の上すぐに削除します。私、副島隆彦が、フェア・コメント(公正なる論評)を前後に書き加えて、以下の岩井文に評論(=論評)を書いてから引用すればいいのだが、そんな猪口才(ちょこざい)なことは私はしたくない。

 書き手への深い敬意を表し、かつこの文は、日本国の戦後政治の歴史資料になる重要なものである、と私は判断するので、その全文を以下に引用します。

(転載貼り付け始め)
 
『選択』誌 2013年2月号 「靖国の名に そむき まつれる」

宮中取材余話  連載54  皇室の風   岩井克巳

● 靖国の名に そむき まつれる

 富田朝彦(とみたともひこ)元宮内庁長官から電話があったのは、徳川義寛(とくがわよしひろ)元侍従長が死去したあと、生前の証言をまとめて『侍従長の遺言』(一九九七年一月、朝日新聞 社刊)と題し出版した直後だった。

「読んだよ。本当によく書いてくれた。よくぞ徳川さんから聞き出してくれた。ありがとう、本当にありがとう」

 それだけである。徳川証言のどこがどうとは一切言わないので、その感極まった声に当惑したのを覚えている。 長いつきあいだったが、あちらから電 話をくれたのは後にも先にもこの時だけだ。

 ずっと忘れていたが、うかつにも最近になり思い至った。富田は、晩年の昭和天皇から靖国神社のA級戦犯合祀への思いを聞かされ、それを誰にも言 えず一人悶々(もんもん)としていたのではないか。徳川証言で一端が世に明かされ、ようやく胸のつかえがとれたのではなかったかと。徳川は、七八年に、靖国神社 がA級戦犯を含む合祀予定者名簿を届けに来た時、自分は異議を唱えたと証言した。

「私は、東條英機さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいの じゃないかと言ったんです。永野修身(ながのおさみ)さんも死刑になっていないけれど、まあ永野さんは軍人だから。(略) 靖国神社には、軍人でなくても消防など戦時下で働いて亡くなった人は祀(まつ)っている。しかし松岡さんはおかしい。松岡さんは病院で亡くなったんですから」

「靖国神社は元来、国を安らかにする つもりで奮戦して亡くなった人を祀るはずなのであって、国を危うきに至らしめたとされた人も合祀するのでは異論も出るでしょう」

 しかし靖国神社は松平永芳(まつだいらながよし)宮司が合祀に踏み切った。以後、天皇の靖国参拝は途絶えた。後年、八六年八月十五日に詠まれた御製が発表された。

 この年の この日もまた 靖国の みやしろのことに うれひは ふかし

 徳川は「合祀賛成派の人たちは、この歌も自分たちの都合のよいように曲解した」と怒っていた。半世紀も侍従を務め、何事にも慎重で口の固かった徳川の強い語調に「天皇が徳川の口をして語らしめている」と感じた。

 靖国神社を天皇が参拝しなくなった理由がA級戦犯合祀への不満だとすれば事は重大だ。徳川は合祀に異を唱えたのは自分だ、と語ることで、安易に合 祀を推進した人たちへ天皇が突きつけようとした「切っ先」を身を挺して押しとどめ、天皇が浴びるかもしれない「返り血」をも防いだのだろう。

 筆者はこの徳川証言を、九五年八月、朝日新聞の戦後五十年の連載企画として紹介した。しかし、一部の近代史研究者を除き目立った反響はなく、天皇 や首相の靖国参拝を求める人たちからも黙殺された。徳川の「間接話法」は十分には通じなかった。

 徳川は九六年二月に死去し、富田も二〇〇三年十一月に死去した。
そして〇六年七月、小泉純一郎首相が靖国神社参拝を宣言し国内外の反発も巻き起こるなか、日本経済新聞が富田の日記と「富田メモ」を特報した。 一九八八年四月二十八日付のメモに「直接話法」の記録(引用者註。 昭和天皇自身のお言葉という意味) があった。

 「 私は或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取( 白鳥敏夫 )ま  でもが、筑波(藤麿 つくばふじまろ 前宮司 )は 慎重に対処してくれ  たと聞いたが 松平の子の今 の宮司 (松平芳永 まつだいらよしなが)が  どう考えたのか  易々と (父の) 松平(慶民 まつだいらよしたみ )  は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている。だから  私あれ以来参拝していない それが私の心だ」 ( )内は筆者

 
 実は富田の日記は、筆者(引用者註 岩井克己氏)の先輩で 富田とは長く親しかった元朝日新聞記者が死後間もなく遺族から段ボール箱で渡され、公刊の可否を相談されてい た。一通り目を通し「出版は難しい」と返却したという。それにはメモは含まれていなかった。日経によると、記者が日記とメモを入手したのは〇六年五月。小泉首相の参拝問題が内外の激しい議論を呼んでいる時期に端(はし)無くも重なったという。

 この頃、筆者は侍従職事務を長年仕切った卜部亮吾(うらべりょうご)侍従から死去直前に託された日記の公刊準備を進めていた。八八年四月二十八日の日記には、富田 と卜部が順次天皇に呼ばれ「靖国の戦犯合祀と中国の批判、奥野(誠亮・元国土庁長官の)発言のこと」を聞かされたと記録されていた。

 また後年の日記 に卜部は「靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意(ぎょい)に召さず」と記していた。富田メモが昭和天皇自身の発言であることがほぼ裏付けられた。

 そして〇六年十二月には、天皇の歌の相談役を務めていた歌人岡野弘彦(おかのひろひこ)が、先の天皇の御製(ぎょせい)の真意を徳川から聞いていたことを著書で明らかにした。 徳川は次のように語ったという。

 「ことはA級戦犯の合祀に関することなのです。天皇はA級戦犯が処刑された日、深く謹慎して悼(いた)みの心を表していられました。ただ、後年、その人達の魂を靖国神社に合祀せよという意見が起こってきたとき、お上(かみ)はそのことに反対の考えを持っていられました。

 その理由は二つあって、一つ は国のために戦(いくさ)に臨んで、戦死した人々のみ魂を鎮め祭る社であるのに、その性格が変るとお思いになっていること。もう一つは、あの戦争に関連した国との間に将来、深い禍根(かこん)を残すことになるとお考えなのです。ただ、それをあまりはっきりお歌いになっては、さしつかえがあるので、少し婉曲(えんきょく)していただいたのです」(『 昭和天皇 御製  四季の歌 』)

 岡野は「十分に真意が伝わるとは言えないが、天皇の篤(あつ)いお気持ちを思って、徳川さんと相談の上で御集(ぎょしゅう)の『おほうなばら (大海原) 』に収めることにした」と いう。

 徳川は間接話法で語って逝(い)った。富田は恐らくメモを公にするつもりはなかったが、かといって廃棄もしかねたまま世を去った。卜部(うらべ)は中身は書かず 天皇の発言があったことだけ記録した。

 天皇は「私の心」を露わにすることを強く制約される。側近も口外しないのが基本である。しかし、それぞれに戦争への天皇の悔恨(かいこん)と平和への強い思い、それを理解しない者への怒りと哀しみという「私の心」を聞かされた。その重い「遺言」は自分限りで闇に葬ることが出来なかった。死してなお、 天皇の思いはあたかも「歴史における理性の狡智(こうち)」(ヘーゲル)のように後世に蘇(よみがえ)った。

 筆者は聞き書きの作業中、生前の徳川から御製集『おほうなばら』を数日間貸してもらったことがある。ページをめくっていると、小さな短冊がはさんであるのに気づいた。鉛筆の走り書きである。 後日尋ねると徳川は「発表をとりやめた歌です」とだけ答えた。「これこそが昭和天皇の元の御製(ぎょせい)に違 いない」と思った。短冊にはこう記されていたのである。

   靖国の名に そむき まつれる 神々を 思へば うれひの ふかくも    あるか

(敬称略)

(転載貼り付けおわり)

副島隆彦です。この昭和天皇に真実の御製に和歌の意味は、私が解釈すると次のようになる。

  「 靖国の名に 背(そむ)いて、祀(まつ)られることになった、 東条英機以下の、自分に最後まで忠実ではあったが、誤った戦争開始、指導をして世界を敵に回してたことの非がお前たちには有るので、私、天皇としては、世界に向かって、自分自身の非も詫びたのだから、誤った戦争指導をしたお前たちまでも、この度(1978年に)、愚かにも祀(まつ)ってしま  靖国神社に、私は拝みに行くわけにはゆかないのだ。私の憂いは深い 」

であろう。

 真実はこの皇室記者である岩井克己氏の書いた通りである。 私たちは、私たちのこの日本国が、本当は王国( キングダム、モナーキー 君主制国家。ただし、その内側が デモクラシー=代議制民主政体=になっている)と知っている。だから私たちの 国王である故・裕仁(ひろひと)天皇のお言葉とご遺志に従わなくてはいけない。

副島隆彦拝