[1519]柿本人麻呂の正体を暴くⅫ
大伴安麻呂(柿本人麻呂)の最初の結婚
大伴宿祢、巨勢郎女を娶る時の歌
(大伴宿祢は諱(いみな)を安麿といふそ、難波朝の右大臣大紫大伴長徳卿の第六子、平城朝に大納言兼大将軍に任じて薨ずるそ。)
玉葛(たまかづら)実ならぬ樹には ちはやぶる 神そ着くとふ ならぬ樹ごとに(101)
(大意)玉葛のように実のならない樹には、恐ろしい神が取り付くと云います。実のならない樹ごとに。(求婚の歌)
巨勢郎女、報(こた)へ贈る歌
(即ち近江朝の大納言巨勢人卿の女そ)
玉葛 花のみ咲きて 成らざるは 誰が恋ひにあらめ 吾は恋ひ思ふを(102)
(大意)玉葛のように花だけ咲いて実の生らない(誠実の無い)のはどなたの恋でしょう。私はお慕いしていますのに。
難波朝(なにわのみかど)とは、孝徳天皇(在位645~654)です。安麻呂の父・長徳は、孝徳天皇に右大臣として仕えていました。天皇と皇太子・中大兄皇子の間に対立が生じ、皇太子が百官を率いて飛鳥の宮に引き上げ、天皇は孤独の内に憤死する事件がありました。大伴氏と天智天皇(中大兄皇子)との確執はその時以来のものだったかもしれません。
大伴旅人、田主、宿奈麻呂の三人は、安麻呂と巨勢郎女の間に生まれた子供です。二人は仲睦まじい夫婦でした。しかし、巨勢郎女の父は、近江朝・大友皇子に大納言として仕えていたのです。巨勢人卿は、壬申の乱を大友皇子に最後まで忠誠を尽し、乱の後、本人及び子孫悉く流罪の刑を受けていた。
一方大伴氏は、一族結束して天武天皇に味方した。その大伴氏の中で最も活躍したのが安麻呂でした。安麻呂の家庭は引き裂かれていた。夫は大きな戦功で輝く未来を約束されていたとて、妻の実家の親兄弟は皆辺境の荒野に流されたのです。妻の嘆き苦しみはどんなに大きなものだったか。世間は、どんな目を二人に注いでいたのだろう。
「柿本朝臣人麻呂、妻死(みまか)りし後、泣血哀慟して作る歌(207~216)」を丁寧に読むことで、私は「人麻呂の妻は、尋常な死に方をしたのでは無く、覚悟の出奔を遂げた」と解読した。人麻呂は、世間の目が恐ろしくて逢いに行けなかった、と歌っている。愛する心が変わったわけではない、ほとぼりが冷めればまた逢える日がきっと来るから、私(人麻呂)を信じて安心して待っていてほしい、と歌っている。そんな中、人麻呂の妻は、白装束に身を包み失踪を遂げたのであった。人麻呂は、慌てふためいた、必死に捜索を続けたが、生きている妻におろか、遺骸にもめぐり合うことが出来なかった。人麻呂は、妻を見殺しにした、妻殺しを原罪として出発した詩人である。大伴安麻呂の境遇と、人麻呂の歌が完全に重なるのである。壬申の乱は、大伴安麻呂と妻(巨勢郎女)を完全に引き裂いていた。