[1513]柿本人麻呂の正体を暴くⅩ

守谷健二 投稿日:2014/01/06 14:26

  皇太子・草壁皇子と大津皇子

 石川郎女の愛を争った草壁皇子と大津皇子は、天武天皇の皇子たちの中で特別な位置を占めていた。草壁皇子は、天皇と皇后(即位して持統天皇)の間の一人子です。
 一方の大津皇子の母は、斉明七年(西暦661)正月六日の斉明天皇の筑紫行幸に帯同され、海路についての二日後、船中で大来皇女(おほくのひめみこ)を出産された大田皇女です。日本歴史学派、この斉明天皇の筑紫行幸を「新羅討伐の為」と説いていますが、それは日本史理解の最大の誤りの一つです。戦争の為の出征に、どうして身重の、それも臨月に入っていた皇女を連れて行かねばならないのだ。この行幸の目的は、筑紫王朝の大皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)に嫁いぎ身籠っていた大田皇女を、無事筑紫へ送り届けるのが目的であった。大和王朝と筑紫王朝の同盟が成立事を披露するための旅であった。
 大田皇女と皇后(後の持統天皇)は、天智天皇と遠智娘(蘇我山田石川麻呂の娘)の間に生まれた実の姉妹であった。本来は、姉である大田皇女が皇后に立てられたのだろうが、大津皇子を御産みになって早くに亡くなられていたのか、妹(後の持統)が皇后に立てられた。
 草壁皇子は、少し病弱で影の薄い印象を受けるが、大津皇子の方は、それと対称的に文武に秀で、皇子の下には良き人々が多く集っていた。天武天皇は、大津の才を愛し、自分の亡き後、皇太子・草壁皇子の補佐役としての大きな期待を寄せていた。
 しかし、皇后の目は違っていた。姉の子どもに危険なライバルを見ていた。石川郎女が、大津皇子に走った事件も関係していたのだろう、皇后は、大津皇子に怨みを抱くようになっていた。
 あんのじょう、朱鳥元年(686)九月、天武天皇が亡くなるや、大津皇子は皇太子に対する謀反の罪を着せられ殺害された。
 私は、大津皇子殺害の後、大津皇子と愛の歌を交わした石川郎女の人生を辿ることが出来たら柿本人麻呂に辿り着くことが出来るのではないかと考えたのです。人麻呂の再婚相手の石川郎女と、大津皇子と愛を交わした石川郎女を同一人物と見た。
 次回は、その後の石川郎女を探索します。