[1480]柿本人麻呂の正体を暴くV

守谷健二 投稿日:2013/12/12 17:02

   人麻呂の妻はなぜ死んだのか(1478)の続きです

 妻が窮地に堕ちていたことを人麻呂は知っていた。しかし、世間の目を恐れて逢いに行くことが出来なかった。手を差し伸べ救うことが出来ずにいた。ほとぼりが冷めるまで自分を信じて待っていてくださいと祈るばかりであった。そんな中、妻の里から使いが来て「妻が、紅葉に 過ぎて去(い)にき」と伝えて来た。私が目にしたすべての注釈書はこれを、妻が死んだ、と訳している。それならばどうして人麻呂は妻の死体が横たわる妻の里に走って行かなかったのだろう。もしかしたらと微かな希望を胸に、妻のお気に入りの場所であった「軽の市」に行って妻を捜しているのだろう。人麻呂の妻は失踪したのだ、と解釈せねば話は通じない。これまでの注釈者は、題詞の「妻死(みまか)りし後」に呪縛されているのである。しかし、歌が主で、題詞は従の関係である。歌と題詞の間に矛盾のあるときは、歌の内容の方が優先され。人麻呂は、妻の死を受け入れてはいない、だから妻のお気に入りの軽の市に捜しに行ったのだ。

  秋山の黄葉(もみち)を茂み迷ひぬる妹を求めむ山路しらずも(208)

  黄葉の散りゆくなべに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ(209)

 妻が失踪したと云う事は、次の(210)の歌を検討すると、より明快になる。