[1476]柿本朝臣人麻呂の正体を暴くⅢ

守谷健二 投稿日:2013/12/08 12:58

 人麻呂の終焉の土地の考察を続けます。この問題は、日本史を考えるうえで避けて通れない問題と信じているからです。

   柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて死に臨みし時、自ら傷見て作る歌(223)
  鴨山の 岩根し枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ」

   柿本朝臣人麻呂の死に時、妻依羅(よさみ)の娘子の作る歌二首(224,225)
  今日今日と わが待つ君は 石川の 貝に(一に云う、谷に)交りて ありといはずやも

  直(ただ)の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲ばむ

   丹比真人、柿本朝臣人麻呂の意(こころ)に擬して報(こた)ふる歌
  荒波に 寄り来る玉を 枕に置きて われここにありと 誰か告げなむ

   或る本のうた
  天離(あまざか)る 夷(ひな)の荒野に 君を置きて 思ひつつあれば 生けるともなし

 終焉地考察には、現在二つの流れがあります。伝承を継承する、海岸部で亡くなった、とするものと、茂吉が提唱した、山間部で亡くなった、とするものです。
 茂吉の提唱した説の強みは、妻の歌(224)に「貝に(一に云う、谷に)」とあることから、「貝(かひ)」を「峡(かひ)」と同音特定することが出来ることです。「峡」と「谷」は同義ですから。
 しかし、茂吉の説が正しいとすると、(226)と(227)の歌の配置が全く説明できないのです。そのため、茂吉は、(226)と(227)の歌は、『万葉集』の編者が誤って挿入したのだと決め付けるしかなかった。
 その点海岸部で亡くなった、とする説は、(223)から(226)までの歌で、「人麻呂は、石見国の鴨嶋で亡くなり、石川の河口付近に運ばれ、荼毘にふされ、河口で散骨された。」という物語を作り、(226)の歌まで取り込むことに成功している。(226)を取り込むことが出来るのが、海岸部で亡くなった、とする説の強みと言える。
 しかし、海岸部説でも(227)が配置されている説明はつかないのである。両説から、(227)の歌は、邪魔者扱いにされてきた。何かの間違いで挿入されたのだろう、と。
 しかし、私は、これを『万葉集』の編者の間違いとは考えず、編者の意図的な指示である、と考えたのです。何故なら、『万葉集』を最初から順番に読んでゆけば誰で気付くことですが、(226)の歌「荒波に 寄りくる玉を 枕に置き われここにありと 誰か告げなむ」は、(223)「鴨山の 岩根し 枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ」の直前に置かれている「讃岐の狭峯(さみね)の島に、石の中に死にし人を見て、柿本人麻呂の作る歌(220~222)の反歌の一つとするとピッタリするのである。
 また、(227)の歌「天離(あまざか)る 夷(ひな)の荒野に 君を置きて 思ひつつあれば 生けるともなし」は、「柿本朝臣人麻呂、妻死にし時、泣血哀慟して作れる歌二首(207)~(216)」の反歌と見ると、ぴったりするのです。  
 ここから、私は、茂吉が邪魔者扱いにした(226)と(227)の歌は、本来は積極的な存在理由を持ち、人麻呂の生と死を(227)から(227)までの歌の中で考えよ、と指示しているのだと考えた、『万葉集』の編者は(207)から(227)までを、一つのシリーズとして読むことを示唆している、その中で人麻呂の生と死を考えることを強要していると考えた。そこで(227)の歌から丁寧に読むことにしたのです。次回から(207)の歌から検討します。