[1474]柿本人麻呂の正体を暴く Ⅱ

守谷健二 投稿日:2013/12/06 14:50

創られた人麻呂像
現在人麻呂像と信じられている最大公約数を上げれば、1、奈良遷都以前に亡くなった。2、六位以下の下級官吏であった。3、石見国の鴨山で亡くなった。4、石見国と大和の京に妻がいた。(石見の妻との別れの歌、大和の妻に捧げた挽歌がある)5、旅の歌が『万葉集』に多く残されていることから、人麻呂は地方の業務に就くことが多かったと考えられている。
柿本人麻呂の記事は、正史『日本書紀』『続日本紀』に一切なく『万葉集』の歌と題詞から推定するしかなく、概ね以上のような点が、人麻呂像として信じられている外観である。
上にあげた1~3は、以下に掲げる『万葉集』巻二の歌群から推定されるものである。

    柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて死に臨む時、自ら傷みて作る歌
 鴨山の 岩根し枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ(223)

    柿本朝臣人麻呂の死(みまか)りし時、妻依羅(よさみ)娘子が作る歌二首
 今日今日と わが待つ君は 石川の 貝に(一に云う、谷に)交りて ありといわずやも(224)
 直(ただ)の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ(225)
    丹比真人、柿本朝臣人麻呂の意(こころ)に擬して報(こた)ふる歌
 荒波に 寄りくる玉を 枕に置き われここにありと 誰か告げなむ(226)

    或る本の歌に曰く
 天離(あまざか)る 夷(ひな)の荒野に 君を置きて 思いつつあれば 生けるともなし(227)

 寧楽宮(ならのみや)
    和銅四年、河辺宮人、姫島の松原に娘子の屍を見て悲しび歎きて作る歌二首(228,229)
 
カッコ内の数字は、『万葉集』の歌の通し番号である。奈良宮の歌(和銅四年)の前に人麻呂の挽歌が置かれていることから人麻呂は奈良遷都以前に亡くなっていたと推定され、妻の歌の題詞に「死」の文字が使われていることから六位以下の下級官吏だとされた、三位以上だった「薨」を用い、四位、五位だったら「崩」を用いたはずだ、という理屈だ。
また「鴨山の 岩根し枕ける・・・」(223)の歌から「荒波に 寄りくる玉を 枕に置き・・・」(226)までの歌で、「人麻呂は、石見の鴨山で亡くなり、石川の河辺に運ばれ、荼毘にふされ、川に散骨された、という物語が作られた。石見国(島根県西部)の海岸部には、人麻呂終焉伝説を持つ地が数ヵ所ある。その代表的なものは、益田市(島根県の西端)の伝承だ。当市には二か所に柿本人麻呂神社がある。戸田と言う処と、高津川河口である。戸田の方は、人麻呂の出生地の伝承を持ち、高津の方は終焉地の伝承を持つ。高津川河口沖合には昔鴨嶋と呼ばれていた島があり、人麻呂はその島で亡くなったのだが、万寿年間(1024~1028)の地震と津波でその鴨嶋は水没したと伝えられている。他の人麻呂終焉地伝承を持つ土地の鴨山も、成長した砂丘に飲み込まれたり、洪水などの地形の変化で現存しているものは一つもない。しかし、人麻呂は、石見国の海岸部で亡くなったのだろうと長く信じられてきた。この説に異を唱えたのが斎藤茂吉であった。茂吉は、歌人としての感性で、「鴨山の 岩根し枕ける・・・」の語感が、地震や津波で融けて無くなる様な弱弱しい山であることに承服しかねたのです。妻の歌に「今日今日と わが待つ君は 石川の 貝に(一に云う、谷に)交りて・・・」とあることから、「貝」は、「峡(かひ」に違いない(峡と谷は同義)と決め付けた。茂吉は、石見国の山間部に目を付けたのでした。そして発見したのが江の川の上流、邑智郡美郷町湯抱にある鴨山でした。これが茂吉の有名な鴨山考です。しかし、この茂吉の鴨山には決定的に不都合なことがあります。(226)と(227)の歌が置かれている意味が説明できません。それで茂吉は、『万葉集』の編者が間違って挿入したのだと、(226)と(227)の歌を否定削除した。これに咬みついたのが昭和四十年代、洛陽の紙価を高からしめた梅原猛氏の『水底の歌』でした。茂吉に『万葉集』の編者を裁く資格があるのか、と猛然と食って掛かり、益田市の高津川沖合なあったという鴨嶋伝説を復活させたのでした。どこかのテレビ局と連携して海底調査を遣ったようです。しかし、(226)の歌を復活させて高津沖合の鴨嶋が人麻呂終焉の土地だとしても、(227)の歌が置かれている説明は尽きません。次回は(226)の歌と(227)の歌が置かれている意味を考えます。