[1436]守谷健二説 「倭国(わこく) と 日本国が並立して400年ぐらい存在した」についても。
副島隆彦です。
まず、私は、今日のぼやきの方に、「1409」番として、「 腰痛(ようつう)と首、肩の痛みは治るようである。 「トリガーポイント・ブロック注射」という治療法を紹介する。 副島隆彦記 2013年11月6日」を書きました。お読みください。ご自分の治療の体験記なども、どんどん皆さん、書いてください。
次に、私は、この重たい掲示板に、最近、15本に渡って 「 日本書紀と天武の正統性の問題15 投稿者:守谷健二 投稿日:2013-10-25」
を投稿してくださった、会員の守谷健二氏の、文章に、私の考えを書かなければいけないと、ずっと思っていたので、書きます。しかし、考えを書くとなると、私も、日本史の古代史 の 「西暦668年に初めて、『近江令(おうみりょう)』という法律に表れた、「日本」というコトバの問題」など、膨大な量の文を書かなければいけません。
私は、守谷氏が、「倭国( どうも、西暦237年の卑弥呼(ヒメミコ)が、『親魏倭王(しんぎわおう)』 の称号を、魏の皇帝からもらったころには存在した) と、それが、西暦672年の 壬申の乱(じんしんのらん)で、天智(てんち)天皇が死去して、ずぐに、大海人皇子(おうあまのおうじ)=天武(てんむ)天皇が乱に勝利して即位するまでの、間の 400年余のことを、ずっと、真実の日本史の古代は、こうだったのだ、を、私なりに書かなければいけないことになります。
私は、守谷氏が、「倭国と 日本国(おそらくヤマト王権=朝廷)が、400年間余、並立して、存在している」という 独自の説を立てていることに、鋭く注目します。 確かに、3世紀から7世紀まで、北九州と韓半島の南一体に、倭国(わこく)という国が存在して、それは、機内=奈良盆地を中心とする ヤマト(大和)王権とは、別物だったのだ、それが、白村江の戦い(663年)で、3万人の倭人の兵士が敗北して、それで、倭国が消滅して、大和王権に統合されたのだ、と考えるのが、ものすごく説得力があると、分かります。
しかし、守谷さん。それでは、4世紀、5世紀の「倭の五王」として、はっきりしている、仁徳(にんとく)や、允恭(いんぎょう)、雄略(ゆうりゃく)などの、難波(なにわ)、河内に、大きな前方後円墳を作った 河内王権(かわちおうけん)の王たちまでは、はっきりと中華帝国に、朝貢(ちょうこう)して、化外(けがい)の民としての、属国の外側かどうかは分かりませんが、支配被支配の関係にあった、事実などが、証明できなくなります。
守谷さん。 あなたが、以下に、私が、再録する文は、ものすごく説得力が有ります。 皇極=斉明天皇(女帝)の動きや、倭姫(やまとひめ)のところなどは、私はあなたの文を読んで、ハッと息を呑みました。 すばらしい創見です。
だが、守谷さん。日本書紀を、あなたなりに、その真実を読み破った、という書き方だけでは、ここの読み手たちを、説得する事はできません。
「古代史を専門とする日本史学者のだれそれが、このように書いている」という書き方が、どうしても必要なのです。このことをどうか、分かってください。
私は、くだらない権威や、日本の学者の世界にひれ伏せということを言っているのではありません。 コトバのもつ、共同了解性として、 「有名な、◯◯という学者が、このように書いている。しかし、私は、そうは思わない。なぜならば、文献や、証拠として、たとえば、中国の24正史のひとつの『旧唐書(くとうしょ)』にこのようにはっきりと書かれている」 という書き方をしていただきたい。
このことをどうか、分かってください。 その上で、学問道場の「日本史掲示板」というものを立ち上げてでも、興味のある人と、議論と論究の輪を広げてゆきたい。私、副島隆彦も参加します。
守谷さんは、以下のように、すばらしいことを書いています。
[1415]日本書紀と天武の正統性の問題13
投稿者:守谷健二
投稿日:2013-10-21 12:10:57
1413の続きです。
大宝三(703)年の粟田真人(あわだのまひと)を大使とする遣唐使の派遣。これが日本統一王朝の第一回目の遣唐使である。粟田真人は天武(てんむ)の方針 (すなわち、日本列島では、開闢(かいびゃく)以来、大和王朝しか君臨した王朝はなく、その王である天皇が代々途切れることなく即位し統治してきた) で作られた歴史を携えて唐の都長安を訪れ、日本国の由来を報告した。これには唐の史官たちは吃驚(ビックリ)したであろう。
僅か40年前に倭国と戦争していたのだ。倭国王は、長安で捕虜生活を送っていたのである。日本列島の記録は十分すぎるほどあった。それなのに日本国の使者たちは、奇妙な歴史を語るのであった。
『旧唐書(くとうしょ)』日本国伝より
日本国は倭国の別種なり。 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅(みやび、が)ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。
あるいはいう、日本国は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多く自ら矜大(きょうだい)、実を以て対(こた)えず。故に中国是れを疑う。また言う、その国の堺、東西南北各々数千里あり、西界南界は皆な大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人(もうじん、けのひと)の国なりと。
非常に簡潔で明快な文章である。唐の史官と日本国の遣唐使の遣り取りが目に浮かぶようではないか。
しかし、日本史学者たちは、この『旧唐書』の倭国伝、日本国伝の並記は、編者の不体裁な誤りである、と決め付け、否定し無視してきた。日本史学は、その上に構築されてきたのである。
副島隆彦です。このように 守谷さんは、はっきりと自分の主張をしています。
この他に、多くのすばらしいことを、1~15に至るまでの文章で書いてくださいました。文学作品を読むような美しさでした。そして、最後に、がっかりされて、次のように落胆の辞を書きました。
[1422]日本書紀と天武の正統性の問題
投稿者:守谷健二
投稿日:2013-10-23 11:03:05
1415の続きです。
学問道場と名乗っていますが、あまりにも反響の無さにガッカリしています。日本にとりかなり重要なことを書いているつもりなのですが、書き方が悪いのか、注目理解されないのでしょうか。
十年前に、今私が書いている文章を見たら、私自身でもこの男は何を妄想しているのだ、と考えたと思う。それ程教科書で習った日本史の常識とかけ離れていることは自覚している。しかし、私の判断の根拠としているのは『日本書紀』『万葉集』『懐風藻』『古事記』『旧唐書』であり、総て第一資料と呼ばれるものばかりである。後世のインチキ学者の孫引きで組み立てた説ではないのだ。私の説に、文句があるなら第一資料を根拠に言って欲しい。日々の生活に追われる身では、パソコンに向えるのは二時間が限度だ、かなり切羽詰った気持ちで書いている、遺言のつもりで書いている。学歴の無い者が、偉そうなこと言っても誰も相手にしないのが日本の社会だ。だからこそ、この学問道場を発見したのは、喜びである。道場なのだから、目先のことだけに囚われず、お互いに鍛えるために忌憚の無い論を戦わせようではないか。お互いこの場を育て上げようとする覚悟がなければ、学問道場など名前だけのものに堕っしてしまうだろう。
目先のことは切羽詰って何より重要である、その判断を誤らないためにこそ根源を知ること、歴史を学ぶことが大事なのだと思う。
しかし、日本史学はあまりにもインチキが多いのだ、特に古代史に於いては。江戸時代以前の皇国史観と、江戸時代の皇国史観と、明治以降の皇国史観の違いを述べよ、出題されてキッチリと答えられる史学者がいるとは思えない。解る人がいれば、この掲示板に書いてほしい。これが日本史を理解する根源的な問の一つであるから。
今回は、あまりにも反応の無さに、愚痴を述べました。学問道場の発展を心から願っているものです。
副島隆彦です。 守谷氏の落胆は、理解できます。そう気落ちなさらないで、貴兄の文に、注目して読んでいる人もいると、考えなおしてください。私は、この間に、貴兄に2回メールを差し上げたはずです。 それには、貴兄からのお返事がありませんでした。
私は、先週から、『闇に葬られた歴史』(PHP研究所刊)という日本史についての評論本を書きました。その、第5章で、「天皇とは、北極星のことである」論(斉川眞=さいかわまこと=説)について。 第6章で、岡田英弘(おかだひでひろ)教授の『日本史の誕生』
について、日本の建国は、中国の華僑たちによって、668年に行われた」説。
倭国はこの時、消えた論。第7章で、 「聖徳太子は蘇我入鹿(そがのいるか)である」(関裕二=せきゆうじ=説)を支持する。それから、藤枝晃(ふじえだあきら)京都大学教授の地道な「ペリオ蒐集敦煌写本選影(しゅうしゅうしゃほんせんえい)」(1965年)の研究が、聖徳太子の創作、捏造を、学問的に成し遂げたこと。 これらのことを書きました。
私、副島隆彦は、この世の大きな真実を、暴き立てることにおいて、一歩もあとには引きません。 守谷健二氏の、これからの投稿、論文発表を、期待します。そこに、大きな真実が書かれているならば、かならずや人々の魂に訴えかけるでしょう。そしてそれは、日本国を動かします。
副島隆彦拝