[1428]日本書紀と天武の正統性の問題

守谷健二 投稿日:2013/10/28 07:40

1426の続きです。
奈良時代末期、藤原氏は皇位から天武の血を排除することに成功する。平安の王朝は大和王朝の本来の歴史を取り戻し、改正された歴史を編纂するチャンスをもったのであった。しかし、それは為されることはなかった。サボタージュを決め込んだ。二つの理由が考えられる。一つは、遣唐使で行くたびに『日本書紀』の万世一系の歴史を日本の唯一の真実だと説明し主張してきた。お土産攻勢が功を奏したのか、唐の史官も遣唐使の話に耳を傾けるようになっていた。事実『旧唐書』以降の中国史書は、万世一系の皇統で作られる。
もう一つの理由は、『日本書紀』の歴史は、権力者が最も忌み嫌う革命を完全に排除して作られているからだと思う。
平安の王朝は、天武天皇の定めた歴史を受け継いだが、尊敬もしなかったらしい。『源氏物語』蛍の巻に次のような記述がある。

「神代より世にある事を記しおきけるななる日本紀などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しき事はあらめ」とて笑ひ給ふ。

光源氏の言葉として「神代より世の中の事を記しておいたという『日本書紀』なんかは(ただかたそばぞかし)、女、子供が熱中している物語と言うものにこそ人間らしく詳しい人生の出来事が書いてあるだろうのに」とお笑いになった。

『日本書紀』なんかは「ただかたそばぞかし」と言う。(かたそば)の意味は(片端、一辺、一部分、わずか)などである。否定的な内容で、それをさらに強調している。「あんなものにたいしたことは書かれていないんだ」と言うぐらいの意味だろう。
現代に生きる我々には、『日本書紀』よりも『物語、小説』の方に真実がある、と言う事はすんなりと受け入れる事も出来るかもしれないが、これは十世紀、中世貴族政治の全盛期の発言とすると驚きである。光源氏は、平安王朝全盛期の最高権力者・藤原道長がモデルだと云う。道長の側に仕えていた紫式部が、道長の発言を耳に挟んだものを書き入れたのかもしれない。しかし、と考え込んでしまう、『日本書紀』は、天皇と藤原氏の日本支配を担保する『書』ではないか。神聖で大事な書ではないか。「あんなもの」と軽んじて良い筈が断じてない。
平安の王朝は、天武の歴史を受け継いだが、それに尊敬を払っていたようには見えないのである。
日本の歴史は二重に亘り裏切られ、打ち捨てられた。一度目は、天武天皇を大和王朝の正統者に挿入した時。二度目は、平安の王朝が大和王朝本来の歴史を取り戻すことにサボタージュを決め込んだ時である。これは日本民族の精神に測り知れない甚大な影響を残すことになった。日本民族は歴史に対する信頼、畏れ、尊敬を失ってしまった。
舌足らずになってしまいましたが、これで終わりにします。
平成25年10月28日。守谷健二 拝