[1415]日本書紀と天武の正統性の問題13
1413の続きです。
大宝三(703)年の粟田真人を大使とする遣唐使の派遣。これが日本統一王朝の第一回目の遣唐使である。粟田真人は天武の方針(日本列島では、開闢以来大和王朝しか君臨した王朝はなく、その王である天皇が代々途切れることなく即位し統治してきた)で作られた歴史を携えて唐の都長安を訪れ、日本国の由来を報告した。これには唐の史官たちは吃驚(ビックリ)したであろう。僅か40年前に倭国と戦争していたのだ。倭国王は、長安で捕虜生活を送っていたのである。日本列島の記録は十分すぎるほどあった。それなのに日本国の使者たちは、奇妙な歴史を語るのであった。
『旧唐書』日本国伝より
日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本国は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対(こた)えず。故に中国是れを疑う。また言う、その国の堺、東西南北各々数千里あり、西界南界は皆な大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと。
非常に簡潔で明快な文章である。唐の史官と日本国の遣唐使の遣り取りが目に浮かぶようではないか。
しかし、日本史学者たちは、この『旧唐書』の倭国伝、日本国伝の並記は、編者の不体裁な誤りである、と決め付け、否定し無視してきた。日本史学は、その上に構築されてきたのである。