[1413]日本書紀と天武の正統性の問題Ⅻ

守谷健二 投稿日:2013/10/18 10:27

1412の続きです。
 前回書き残したこと三点書きます。
 一つは、天武軍の勝利が確定した後、尾張国司守少子部連鋤鉤(ちいさこべのむらじさひち)と言う人物が自決した、という記事があることです。鋤鉤(さひち)は、6月27日、尾張・美濃で徴集されていた二万の兵団を引率していた責任者でした。天皇の言葉として「鋤鉤は有功の者なり。罪無くして何ぞ自ら死なむ。それ隠れる謀有りしか。」と、もっともらしい発言を載せているが、鋤鉤の自決は自ら率いていた兵団が、天武の手に落ちたことに対する後悔責任、滅ぼされた近江朝に対する殉死以外に考えられようか。
 しかし、『日本書紀』は、天武を天智の実の弟と書く。それなら「壬申の乱」は叔父と甥の争いに過ぎない。カップの中の嵐である。一地方官が、そんな争いの結果に自決するほどの責任を感ずるはずがない。

 二つ目は、天武軍が赤色をシンボルカラーに採用していたことです。これは『古事記』序文、『万葉集』の人麻呂の挽歌も明らかにしていますが、学者たちは誰も問題視していません。当時の東アジアで、赤色をシンボルにしていたのは唐朝なのです。当時大量の百済難民が日本列島に漂着していましたし、倭国は朝鮮半島で直接唐軍と戦っていたのです。赤色が唐のシンボルであることは、だれもが知っていることでした。私が美濃・尾張で徴集されていた集団が唐朝に味方するためのもの、と考えるのはこのためです。予め武装されていなければ、天武の手に落ちて五日後には進撃を開始する、など云う早業はとても無理でしょう。

 三つめ、鏡王女のことです。
天武紀、十二年七月四日「天皇、鏡姫王の家に幸(いでま)して、病を訊ひたまふ。五日、鏡姫王薨せぬ。」(日本書紀では、姫王と表記する)
鏡姫王に関する『日本書紀』の記事は、これだけです。現代に生きる我々は『万葉集』の歌から、鏡王女と額田王の関係、天智天皇との歌の遣り取り、中臣鎌足に降嫁させられた時の歌などから鏡王女の姿を思い描いていますが、『万葉集』は公式(勅撰)の歌集ではありません。私的な大伴氏の私家歌集です。(これは論を改めて証明します)当時の人は、『万葉集』を誰も知りません。日本書紀の天武紀十二年七月四日の記事は、天皇が誰ともわからないご婦人を見舞った。日本書紀からだけでは、鏡姫王は、素性のわからない一貴人と言う以外にありません。天皇が素性のわからない危篤のご婦人を見舞った記事など『日本書紀』これ以外に見出すことが出来ません。後世栄誉を極める藤原氏の祖・中臣鎌足の正室であったから見舞った、と考える方もいるかもしれませんが、この当時(壬申の乱の記憶がまだ生々しかった時期)中臣の人々は、じっと身を潜めていた。右大臣の中臣金だけが斬首されたのは、天武天皇に中臣だけは許せない強い気持ちがあったのではないか。鎌足の次男で藤原氏繁栄の礎を築いた藤原不比等は、幼時の折、難を避けるため身を隠していた、との伝承を持つ。中臣から藤原に改姓したのは難を避け、身を欺くためだったのではないか。
天武天皇は、鏡姫王の危篤の席に赴き、詫び、赦しを請うたのではないか、中臣鎌足に降嫁させたことを。