[1412]日本書紀と天武の正統性の問題Ⅺ
1410の続きです。
『日本書紀』は、天武天皇の巻を上下二巻に分け、上巻全てを「壬申の乱」の記載にあて、戦いの功績を顕彰しています。一つの事件に一巻を立てる事は他に例はなく全くの異例です。天武の王朝にとり「壬申の乱」は偉大なる聖戦でした。「乱」などと貶めて云う事は決して許される事ではないのです。『日本書紀』は「乱」とは一言も用いてはいません。
しかし、奈良時代半ばでは誰憚ることなく「乱」と呼んでいた、これは非常に不可解で重大なことです。権力は、正統性が何より重要です。正統性を失った権力は滅びるしかありません。天武の王朝は、奈良時代半ば、すでに正統性を失っていた。
671年五月始め、大友皇子(弘文天皇)、美濃・尾張国で徴兵を開始する。
五月三十日、唐使・郭務宋、筑紫より帰路に就く。
六月二十四日、大海人皇子一行、ひそかに大和、伊賀路を執り東国に
向う、夜を徹する強行軍。
二十六日、伊勢桑名に入る。
この日、近江朝、大海人皇子(天武)が東国に走った 事を初めて知る。近江朝、吉備国と筑紫国は、元より 天武の家臣である、との見解を示す。
二十七日、大友皇子が徴集していた二万の兵を支配下に置く。
高市皇子(天武の長男)に、戦の全権を与える。
二十九日、大伴氏、大和古京にて天武方で蜂起する。
七月 二日、天武の軍勢、不破関(関ヶ原)より近江に向けて進撃 開始。赤色を天武軍のシンボルカラーとする。
二十二日、瀬田に至りて両軍の最後の決戦、近江軍敗れる。
二十三日、大友皇子、自害。
八月二十五日、近江朝の重臣に罪を言い渡す。右大臣中臣連金、斬 首。左大臣蘇我臣赤兄、大納言巨勢臣比等、及び子孫 悉く流罪。
以上「壬申の乱」の簡単な推移です。天武が東国を目指して出発した六月二十四日から、進撃を開始する七月二日まで僅か八日しかないのです。伊勢国に入った翌日には近江朝の徴集していた二万の軍勢を何の抵抗もなく手に入れている。ものすごく用意周到な計略の下に進めていたとしか考えられません。留意していただきたいのは、総ての指揮を、天武の長男である高市皇子が執っていること。『万葉集』の柿本人麻呂が高市皇子に捧げた挽歌は、天武・持統朝の政治は高市皇子が執っていた、と歌っている。しかし、万葉学者たちは、天武・持統の共治体制と言い天皇親政に最も成功した時代と説く。天武朝は「壬申の乱」と呼ばれる戦争で成立した政権である、軍事政権であった、故に、軍権を握る高市皇子が最高実力者であったはずだ。『万葉集』の史料価値は非常に高いのである。高市皇子の存在は非常に重たい。
また、吉備国と筑紫国は「元より大皇弟に隷(つ)きまつる」と、近江朝の認識が書かれている。天武は倭国(筑紫王朝)の大皇弟なのだから当然である。
また、六月二十九日、大和の名門大豪族大伴氏が天武方で決起したのも重要である。近江朝は、この時になっても大和では全く警戒していない、大和で天武に付くものなどいるはずがない、と考えていた。大伴氏の決起は、近江朝に対する裏切りである。このことが奈良時代が深まるにつれ大伴氏を苦しめることになる。事実、延暦四年、藤原種継暗殺事件で、大伴家持は既に死んでいたにも関わらず事件の首謀者にでっち上げられ、屍骸は掘り起こされ、絶海の孤島隠岐に流された。栄光に輝く氏の名・大伴は剥奪され、それ以降は伴氏を名乗るのみ。
近江朝の重臣で極刑・斬首にあったのは右大臣・中臣連金のみである。中臣つまり藤原氏が天智系勢力の中心である。
「壬申の乱」と言うのは、倭王朝の大皇弟・大海人皇子による大和王朝乗っ取り事件のことであった。天武は、正統性を何より欲した。天武を正統とする歴史を創造せねばならなかった。