[1410]日本書紀と天武の正統性の問題Ⅹ

守谷健二 投稿日:2013/10/15 08:28

1408の続きです。
671年十一月、唐朝は倭国王を送還して来た。そして再度の新羅討伐軍の派兵を要請したのです。
しかし、倭国は東国の防人の警護する地に変っていた。大和王朝(日本国)の臣下となっていた。唐の要請は、そのまま大和王朝に伝えられた。
この年の十二月三日、天智天皇が薨去された。後を継いだのは長男の大友皇子(弘文天皇)です。大友皇子は、唐の要請を承諾したのです。翌年の五月の始め、美濃・尾張国で百姓の徴集を開始した。天智天皇は、百済滅亡に伴い故国を離れ日本列島に流れ着いた百済難民に、琵琶湖東岸の湿原、美濃・尾張の荒野を与え開墾自活を促していた。美濃・尾張には百済人部落が点在していた。大友皇子は、彼らを中核とする徴集を進め、武装させ筑紫に送り唐軍に受け渡すことにした。唐使郭務宋が筑紫を離れたのはこの五月の末日と記される。大和王朝が徴兵を開始したのを確認して帰途に就いた。
倭国の大皇弟・大海人皇子は、この徴兵を最初から知っていた。日本書紀は、大海人皇子を天智天皇の実の弟と書き、本来は大海人皇子の方が、皇太子の地位にあり正統な皇位継承者であったが、病に倒れた天智が、我が子・大友皇子に皇位を継がせたいと思っている気持ちを察し、自ら身を引き出家して吉野に隠棲し、静かに余生を過ごすつもりであった。それなのに大友皇子は、恩知らずにも大海人皇子を滅ぼそうとして危害を加えてきた。追い詰められて仕方なく決起したのだ、と日本書紀は大海人皇子の行為を弁明する。
確かに大海人皇子は追詰められていた、帰ってくるとは誰も考えていなかった国王が帰って来たのである、崩壊に面していた倭国が大和王朝の下手に入ったことは理解してもらえよう。しかし、皇后を大和王朝の一臣下に降嫁させた事をどう言えば良いのだ。大海人皇子は国王に顔向け出来なかった。
朝鮮半島情勢によく通じていた大海人皇子は、日本書紀の記述と違い大友皇子のアドバイザー的立場にいたのではないか。大友皇子の妃は、大海人皇子と額田王の間に生まれた十市皇女であり、その間に皇子の誕生を見ていた。
大友皇子が、美濃・尾張で徴兵を開始したことが「壬申の乱」の全てであった。大海人皇子は、この兵団を手に入れることに賭けて挙兵を決意したのである。