[1408]日本書紀と天武の正統性の問題

守谷健二 投稿日:2013/10/14 09:53

1407の続きです。
天智七(668)年正月、満を持して中大兄皇子即位する。不自然な長期の称制(皇太子のまま政治を執ること)に対しいろいろ言われているが、この即位はこれ以前の大和王朝の天皇の即位とは意味を異にする。日本統一王朝の王者になったことだ。日本統一王朝はここに始まる。倭国は、大和王朝(日本国)の臣下に為ったのだ。前年の三月に近江大津に遷都した事は、奈良盆地に偏在するより天然の大運河・琵琶湖を持つ大津の地の利、将来性を勘案してのことであった。天智は、東国開拓に大きな可能性を見ていた。
天智十(671)年十一月、唐使・郭務宋の四度目の来日があった。この訪日は、前三度のものと性格を異にした。

『日本書紀』より
十一月十日、対馬国司、使を筑紫大宰府に遣して申さく「月立ちて二日に、沙門道久・筑紫君薩野馬(さちやま)・韓嶋勝娑婆・布師首磐、四人、唐より来たりて申さく『唐国の使人郭務宋等六百人、送使沙宅孫登等一千四百人、総て二千人、船四十七隻に乗りて、共に比知嶋に泊まりて、相語りて曰はく、今我らが人船数多し。忽然に彼処に至らば、恐るらくは彼の防人、驚きとよみて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、予めやうやくに来朝の意を披きもうさしむ』とまうす」とまうす

上の記事によれば、四人の倭国幹部を千四百人の兵で護送させて送り返してきた、と言う。本来は捕虜の送還であるが、倭国幹部へ敬意をこめれ一国の代表者に対する礼式でもって送り返してきた。その上、今回の訪問は戦うものでないことを前もって対馬国司に伝えている。この記事を見ると前三回の来日では倭国と唐軍の間に多少の戦闘があったことがうかがえる。問題は、この四人の中に筑紫の君薩野馬(さちやま)が居たことである。倭国の首都は、筑紫であった。大和に首都を置く王朝を大和王朝、近江に首都を置く王朝を近江王朝と呼ぶのに習えば、筑紫に都をおいた倭国を筑紫王朝と呼んでも良いはずである。故に、筑紫の君は倭国王である。
唐朝は、倭国王送還して来たのであった。みじめな捕虜としてではなく国王としての礼を尽くして送り届けてきたのである。これが事件の発端であった。
唐朝は倭国に和解を求めてきたのである。問題は朝鮮半島にあった。668年、唐は新羅と協力して高句麗討伐を成し遂げた。隋朝から引き継いだ重い宿題をやり遂げたのである。しかし万歳万歳で終わらなかった。唐軍は帝国軍として朝鮮半島住人を見下し暴虐に振舞っていたため半島全域で反唐感情が充満していた。また、百済滅亡の後、百済旧都に都督府を置き、直接統治する態度を示し、現地役人に百済王族などを起用し新羅の台頭に対抗させていた。新羅王朝に、唐に対する反感不信が育っていた。
高句麗滅亡を前後して、反唐の蜂起が頻発していた。669年の後半、新羅王朝が唐に対し戦闘の火蓋を切ったのです。反唐感情が充満していました、半島駐留唐軍は一気に劣勢に追い遣られた。唐の半島経営は危機に瀕していました。
世界帝国の唐と言え、長年の派兵は唐の財政を圧迫していた。また国民の間に厭戦気分が蔓延していました。そこで妙案を思い付いたのです。あの倭国に、再度の新羅討伐軍の派兵を促せば良いのではないか、と。そこで長安で捕虜になっていた倭国王に麗々しく千四百人もの護衛の兵をつけて送り届けたのでした。