[1406]日本書紀と天武の正統性の問題Ⅶ

守谷健二 投稿日:2013/10/11 12:14

1404の続きです。
661年八月に始まった倭国の朝鮮半島出兵は二年後の663年八月、白村江の敗北で決着を見る。『旧唐書』劉仁軌伝は次のように記す。「仁軌、倭兵と白江の口に遇う。四度戦い捷(かつ)、其の船四百艘を焚く。煙り炎は天に漲り、海水は真っ赤になった。・・・」と、『三国志』で有名な赤壁の戦いを思わせる地獄絵の再現であった。どれほどの倭兵が故郷に帰り着くことが出来ただろう。
 日本の教科書は、これでこの事件は終わりとの様に書く。しかし、いまだ高句麗は健在であった。唐の真の目標は、高句麗討伐にあった。それに倭国も半島での戦闘力を失ったと云え、本国で戦闘があったわけではない、本国政府は依然健在であった。しかし、二年に亘り半島に兵を送り続け、惨敗に終わったのである。王朝の権威は地に落ち、王朝への信頼は完全に失われていた。秩序は乱れ、都の治安の維持も儘ならなくなっていた。そんな中、664年唐の使者・郭務宋がかなりの兵力を率いて筑紫に来たのである。郭務宋はこの時から671年まで四度も筑紫に来ている。(日本書紀)世界帝国である唐朝が、二年に亘り刃向かった倭国をそのまま見逃すわけがない。厳しい条件を突き付けられただろう。国民の信頼を完全に失ったいた倭王朝は、唐の要求に応えることがもはや出来なかった。大和王朝に縋り付くしかなかった。東国からの防人の徴集はここに始まったのだろう。関係は完全に逆転していた。倭国討滅は、中大兄皇子の胸三寸にあった。倭国の皇大弟・大海人皇子は、中大兄皇子(天智)におもねり取り入らねばならなかった。才色兼備として名高かった自分の妃・額田王(ぬかだのおほきみ)を中大兄皇子に差し出した。

  天皇、蒲生野に遊狩(みかり)したまふ時、額田王の作る歌
 あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る (20)

  皇太子(大海人皇子)の答えましし御歌
 紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋めやも(21)

この一対の歌は、日本の詩歌で最も有名なものの一つです。額田王は最初大海人皇子と結婚し、その間に娘(十市皇女)を産んでいた。しかし、上の歌の応答のあった天智七(668)年には、天智天皇の後宮に入っていたのです。もう一首万葉集の歌を検討します。

  天皇(天智)、内大臣藤原朝臣(中臣鎌足のこと、壬申の乱以前は中臣氏   は、まだ藤原を名乗っていない)に詔して、春山の萬花の艶と秋山の千葉の  彩を競はしめたまふ時、額田王、歌を以ちて判(ことわ)る歌。

 冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴くぬ 咲かざりし 花も咲く けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉 を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎く そこし恨め し 秋山われは (16)

 この歌は、隠喩(metaphor)歌なのではないか。春山とは、興隆期を迎えていた近畿大和王朝(日本国)を指し、秋山は没落に向かっている筑紫王朝(倭国)を指す。そして秋の紅葉の中に残れる青葉とは、天智天皇に求められる、いまだ青春の色香の残る額田王自身を指している歌ではないのか。(つづく)