[1404]天武天皇と日本書紀の正統性の問題Ⅵ
1398の続きです。
一月六日に難波津を出航した斉明天皇の一行が筑紫に着いたのは三月二十五日であった、と日本書紀は記す。そこで初めて百済王朝滅亡が知らされたのではなかったか。倭国は、しきりと百済遺臣の奮闘を言い、百済国民は王朝奪回に燃え、唐軍は窮地に追い詰められている、と主張する。しかし、もともと同盟に消極的であった斉明天皇は、倭国の言い分をそのまま信ずることが出来なかった。斉明天皇一行と倭国の間に不協和音が生じていた。
そんな中の五月二十三日、二年前に唐に派遣していた使者たちが帰ってきたのである。唐に現状を探らせるべく派遣した使者たちである。使者たちは、唐の都の壮大さ、その盛況さ、宮中人のゆったりと自信に満ちた態度など、唐朝にいまだ荒廃の色など見いだせないことを報告した。斉明天皇は、唐と戦争することの無謀さを確信した。倭国も態度を変えるものと思った。
しかし、ここで倭国の使者(長安に大和王朝の使者と同時に滞在していた)が大和の使者たちを讒(よこ)した、と日本書紀は記す。つまり、大和の使者たちはデタラメナ報告をしている。唐朝に買収されて誇大に唐を美化した報告をしている。我々の見てきた唐は、いたずらに華美に流れ、随処に頽廃が見られた。隋朝が早期に滅んだように、唐朝の命脈もそう長いことではないだろう。本来中国は分裂国家が常態なのだ、とでも言ったのだろう。その為、大和の使者たちは、報奨(めぐみ)を受けることが出来なかった、と記される。大和の使者たちの報告は否定され、倭国の使者の言い分が通ってしまったのであった。斉明天皇一行は、臨戦体制の整う殺気立った倭国のど真ん中に居た。籠の中の鳥であった。手も足も出しようがなかった。しかし、すでに高齢で女帝の斉明天皇は、即時の大和帰還を声高に叫び始めたのであった。斉明天皇一行に異変事が頻出していた。そんな中の七月二十四日、斉明天皇が突然薨去されたのである。あきらかに変死であった。まるで斉明天皇の存在が派兵開始の最後の障壁であったかのように翌八月、百済救国軍の派兵が断行されている。倭国には焦りがあった。旧暦では七月、八月、九月が秋である、晩秋から冬季の大軍の渡海は危険で困難であった、秋の深まる前に兵を半島に送り、百済残党と協力し拠点を確保する必要があった。百済遺臣が善戦奮闘を続けていると云え、一掃されるのは時間の問題であった。派兵開始のタイムリミットは八月までであった。
十月七日、中大兄皇子、天皇の亡骸を守り帰路に就く。十一月七日、飛鳥の川原にて天皇の葬儀を執り行う。