[1398]日本書紀と天武の正統性の問題V

守谷健二 投稿日:2013/10/07 08:09

1393の続きです。
倭国が661年八月まで半島出兵が出来なかった理由はハッキリしています。背後に台頭著しい大和王朝の存在があった。海外派兵は片手間にできる事業ではない。まして相手は唐の臣下に入った新羅である、倭国の総力を結集する必要があった。背後に控える大和王朝の協力を取り付けることが絶対条件であった。二つの王朝はこれまで何度か戦をしてきた過去を持つ。半島出兵中に背後を突かれてはひとたまりもない。大和王朝に協力要請をしてきたが、色よい返事をもらえずに来たのである。そこで倭国は、最後の切り札として大皇弟・大海人皇子(後の天武)を派遣し大和王朝の説得に当たった。(大海人皇子は大皇弟として日本書紀に登場する)それは659年の年末から660年前半のことである。よほどおいしい条件を提示したのだろう、大和王朝の協力を取り付けることに成功する。それが661年正月六日の斉明天皇の筑紫行幸発進として結実した。この斉明天皇の行幸を「新羅討伐軍の発進、斉明天皇親征伐」と解釈しているのが、日本史学の最大の誤りの一つである。
 斉明天皇の筑紫行幸は、倭国と大和王朝の同盟が成立したことをお披露目する儀式に臨席する為である。大和の天皇自らが出向かなければならなかったことは、倭国の方が格上であったことを意味する。
 どうして「新羅討伐の指揮を執るため」との解釈が間違いであるか説明する。出発の二日後、船中で大田皇女が女の子を出産した、と日本書紀は記す。今の兵庫県と岡山県の県境の海域であった。一行は、そこから愛媛県の石湯(今の道後温泉)に直行し二か月半も逗留している。大田皇女の産後を養ったとしか考えようがない。つまり、大田皇女を無事筑紫に送り届けるがこの旅の目的であった、と。
 大田皇女は、中大兄皇子(後の天智天皇)の娘で、大海人皇子に嫁いでいる。大海人皇子は、660年前半、大和に滞在し、実権を執っていた皇太子・中大兄皇子と交渉し、協力を取り付けることに成功し、その果実として中大兄皇子の娘と結婚し、子を身ごもらせていた。
 これから戦争を始めるという旅に、身重の、それも臨月に入っていた皇女を、どうして帯同させるのだ。前年の八月、百済王朝はすでに滅ぼされ、百済残党が各地の山城にこもり果敢にゲリラ戦を展開していた。倭国にとりその百済残党が頼みの綱であった。半島情勢は逼迫していたのである。そんな折に、身重の皇女を帯同して温泉に二か月半も長逗留するはずがないではないか。おそらく、斉明天皇は前年八月の百済滅亡を知らなかったに違いない。知っておれば大田皇女を伴って旅に出なかったろう。しかし、この旅の目的は、大田皇女を無事筑紫に送り届けることにあった。両王朝の結婚(同盟)が成立したことを披露する儀式に臨席するための行幸であった。