[1392]日本書紀と天武の正統性の問題Ⅲ

守谷健二 投稿日:2013/10/04 10:26

1391の続きです。
「百済救国の役の失敗」(西暦661~663)を検討する上で、確認しておかねばならない事がある。唐王朝は、戦争の相手を、倭国である、と明確に認識していたことです。何をへんなことを言うのだと、思われるやも知れない。
 一般の日本人は知らないことであるが、唐朝は、倭国と日本国は、別王朝と明確に区別していた。中国正史『旧唐書』は、倭国伝と日本国伝を別条に作っている。七世紀半ばまでを倭国伝で作り、八世紀初頭か日本国伝で作っている。唐朝は七世紀半ばまで倭国を日本列島の代表王朝と見、八世紀初頭には日本王朝(大和王朝)が倭王朝に代わって日本列島代表王朝に就いていた、と認識していたことを意味する。そのうえで朝鮮半島で戦ったのは、倭国である、明記する。この『旧唐書』の記事を、日本の学者たちは『旧唐書』の編者の不体裁な誤りと決め付け、一切無視している。日本史学の定説では、四世紀には大和王朝の日本統一はほぼ完了していた、と云う。故に学者たちは『旧唐書』を否定、無視し続けるしかない。
 しかし、中国は歴史の国である。『旧唐書』は、その中国の正史だ。『旧唐書』の記事を簡単に否定することなど許されることではない。つまり大和王朝の日本統一は、七世紀の後半であったと云う事だ。ちょうど「壬申の乱」のあった時期である。
 また朝鮮半島出兵の動機もハッキリしている。650年、新羅の使者が、勝手に唐制を採用して筑紫に来た(唐の完全な藩屏国になった)、この事が新羅討伐の大義名分であった。それは『日本書紀』にちゃんと書いてある。つまり、倭国は朝鮮半島南部の百済、新羅に対し宗主国的立場にあった。新羅は倭国の属国であった。『隋書』に、次の記事がある。
「新羅、百済、皆倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬仰し、恒に通使、往来し。」
 中国統一王朝隋自らが、倭国を海東の大国、新羅、百済の宗主国と認めていた。その属国である新羅が、倭国を裏切り、唐の家来になった、新羅討伐が倭国の大義名分であった。
 しかし、この時から実際の出兵開始まで十一年かかっている。次回は、その理由を検討する。