[1390]福沢諭吉の経済戦略(三田藩との強いつながり)

田中進二郎 投稿日:2013/10/03 08:21

福沢諭吉の経済戦略を九鬼家(三田藩)の歴史に探る  投稿者 田中進二郎

ちょうど一年前に出された副島先生の著書『個人備蓄の時代』(光文社 2012年10月刊)の中に、白洲次郎(しらす じろう 1902~1985年)のエピソードがとりあげられていることをご記憶の方も多いと思う。

白洲次郎は日米開戦が近づくと、日本の敗戦の運命を予見して、多摩の鶴川村(現東京都町田市)に引きこもって(疎開して)、農業にいそしんだ。やがて食糧難がやってくることを見越していた。
敗戦まじかになって、東京が空襲にあって米の配給もわずかしかなくなっていった頃、白洲次郎は自分が作った米を、友人宅の玄関前にドサッ、ドサッと投げ込んでいった話が載せられていて、副島先生は「私もこういう粋(いき)なことをやってみたいと思っている。」
と書かれていた。

また、『風の男 白洲次郎』(青柳 恵介著 新潮文庫 1997年刊)を開いて見ると、次のような逸話が載っていた。彼の鶴川村の邸宅(武相荘 ぶあいそう)を訪れたある評論家が、家に福沢諭吉の揮毫になる額がかけられているのを見て、
「あなたは福沢諭吉先生とも面識がおありだったのですか。」
と質問した。白洲次郎は、
「俺はそんな歳ではないよ。いまどきの評論家は本当になにも知らないんだな。」
と答えたという。
福沢諭吉(1835~1901年)と白洲一族の関係というのは、一時はかなり広く知られていた事実だったのだろう、と白洲次郎のその言葉から思った。

白洲一族と九鬼家(摂津三田藩主 さんだ)と福沢諭吉のつながりに興味を覚えて、私の家からも近いことから、この前の日曜日に兵庫県三田市を訪れてみた。
三田藩主の九鬼家というのは、戦国時代に織田信長の下で伊勢水軍として活躍した九鬼嘉隆(くきよしたか)の子孫だ。石山本願寺攻めのとき、毛利の村上水軍と戦って、鉄甲船
で破った話が有名だ。豊臣秀吉の朝鮮征伐の時にも、九鬼水軍の『日本丸』という龍の頭を船首につけた船が旗艦を務めた。
徳川三代将軍家光の時、九鬼家は二つに分割され、そのひとつが三田藩3万6千石に、転封となった。そして二百年をへて、明治維新を迎える。

現在は三田陣屋とよばれる藩主の城館跡の周りに史跡が点在している小・小京都といった趣である。
「三田ふるさと学習館」というところでは、大河ドラマ『八重の桜』にあわせて、新島襄
とつながりのある人物にかんする資料を作成し、展示していた。
「ふるさと学習館」の隣にプロテスタント教会があり、摂津三田教会(旧名は摂津第三基督公会)というのであるが、明治8年(1875年)新島襄がここで洗礼式をあげている。
ボランティアの解説役のおばさんがいうには、「同志社英学校の一期生は旧三田藩士です。
9月15日の大河ドラマ『八重の桜』で転入してきた熊本バンドに馬鹿にされてる学生たちがいましたよね。あれは旧三田藩士たちですよ。テレビで『三田出身だ』と言われなくてほっとしています。」とのことである。

そういえば副島先生が『熊本バンド』と熊本で起こった神風連の乱は根っこが同じだということを言っておられました。これは副島熱狂史観なんだろう。
年表を見ると、明治9年(1876年)1月30日に、「熊本バンド結成。リロイ・ランシング・ジェーンズ(1837~1909)の指導でキリスト教を信仰した熊本洋学校の生徒35人が、花岡山で「奉教趣意書」を朗読して署名した。
この年の3月に政府が「廃刀令」を出し、8月に秩禄処分(ちつろくしょぶん)を断行している。これに反発して、10月24日に「熊本神風連の乱」が起こり、熊本県士族太田黒伴雄(おおたぐろ ともお 1834~1876)らが熊本鎮台を襲撃した。その暗殺リストにジェーンズの名もあったが、熊本を去った後で無事だったという。太田黒伴雄は幕末にあっては肥後勤皇党だった。佐久間象山を京都で暗殺(1864年7月)した河上彦斎(かわかみ げんさい)もこの党派だった。横井小楠(よこい しょうなん1809~1869)の実学党と熊本勤皇党は対立していた。実学党のながれが熊本バンドに受け継がれ、勤皇党は神風連へとつながる。しかし、副島先生はこの二つを「同根だ」とさらっといってしまう。
 (「文明開化の京都年表帖」ユニプラン刊 と ウィキペディアの「神風連の乱」を参考にした。)

話がそれてしまいました。申し訳ない。三田藩(さんだ)の出身で逸材として名が残っているのが川本幸民(かわもと こうみん1810~1871)という洋学者だ。塾長の緒方洪庵とは一歳だけ年下だった。

「神戸慶応倶楽部 社中の心」という記事を読むと、川本幸民と福沢諭吉との適塾での交友が最後の三田藩主の九鬼隆義や白洲次郎の祖父の白洲退蔵につながっていったことがわかる。

「神戸慶応倶楽部 社中の心」↓
http://www.kobekeio.org/club/kokoro/11.htm

川本は幕末に幕府に招かれて、蕃書調所(ばんしょしらべしょ のちに開成学校と変わる)の教授となったが、維新のあとは三田に帰って『英蘭塾』を開いた。
福沢諭吉は川本を通して藩主九鬼隆義や、白洲退蔵ともつながり、秩禄処分のあとの士族の授産について大掛かりな作戦を練っていく。(川本は71年に死去)
それは開港間もない神戸の土地が高騰することを読んで、土地を買収していくことだった。
九鬼隆義と白洲退蔵らに『志摩三商会』という貿易商社を作らせた。
志摩は九鬼家発祥の地であり、三は三田を意味する。九鬼家はここで先祖返りを果たしたともいえるが、福沢の合理的な投資術を伝授されたのである。
しかし、かなりあこぎな土地買収もやったらしい。
「三田ふるさと学習館」のパンフレットには次のように書かれている。

(要約・引用開始)
神戸の開港当時は、外人の来住を恐れた神戸の住民は行く末を案じて自分の所有地を手放すものが多かった。さらに地租改正で地主は高率な税金を徴収されるため、ますます売り急ぐ者が増えた。
そういった土地を買い占めたのが、志摩三商会であった。
明治中頃から土地の急騰が起こり、大正二年の地租納入番付によれば、1位に商会副社長の小寺謙吉(一万五千円)、2位に九鬼隆輝(一万二千円)がなっている。
(要約・引用終わり)

このようにして明治の大富豪(明治オリガーキー)が誕生した。明治の中ごろから次々と出てきているのだそうだ。白洲退蔵- 文平-次郎と続く一族の繁栄の基礎はここに築かれた。

三田藩主九鬼一族の菩提寺、心月院には九鬼隆一(三田藩家老 星崎貞幹の息子。九鬼姓をもらい、男爵になっている。「いきの構造」の著作で知られる九鬼周蔵の父。)による「景慕碑」というかなり大きな碑がたっている。
そこには
「木戸公尊霊  大久保公尊霊  岩倉公尊霊  フルベッキ先生尊霊  福沢先生尊霊 加藤弘之先生尊霊・・・・大正八年 九鬼隆一」 と刻まれていた。

あと白洲次郎、妻の正子の墓もあったが、「葬式も戒名も無用」と言って白洲次郎は死んだので、二人とも墓には名前すら彫られていなかった。

田中進二郎拝