[1380]群馬の旅 上毛かるた紀行 「平和の使い 新島襄」
K.Y.です。いろいろあって、実名を伏せて、K.Y.で、群馬から投稿します。
NHKの大河ドラマでは新島襄と八重の話をやっているそうですが、新島襄と言えば、群馬では上毛(じょうもう)カルタの「へ」として知らない人はいない、「平和の使徒(つかい) 新島襄」。キリスト教の関係の方だそうですね。それも、巨大権力ローマ・カトリックに反抗するプロテスタントの一派の方です。
「大河ドラマで持ち上げられるような人物は常に怪しい」という、副島先生におさっている(教わっている)わたしたちの常識に従って、新島襄をちょっとネットで調べていると、とても素敵な取材ブログがあったので、みなさんにご紹介します。ブログの名前は「いつもハーレーに乗っていたい」、上毛カルタにそって旅をしている方のブログです。ブログでは素晴らしい写真も見られますので、ぜひブログを見に行ってください:http://blogs.yahoo.co.jp/wtydf801/23921692.html
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群馬の旅 上毛かるた紀行 「平和の使い 新島襄」 2010年1月24日
群馬の旅 上毛カルタ紀行 29枚目の札 「へ」は、「平和の使い 新島襄」
みなさん こんばんは!久しぶりの休みを利用して、行ってきました上毛カルタ紀行。今回は、明治維新の偉人 同志社大学の創始者、キリスト教の伝道師、新島襄さんを訪ねる旅です。
それでは、新島襄とゆかりのある群馬県安中市に行ってみましょう!(K.Y.中注: ここに、新島襄先生旧宅 の写真あり)
新島襄は1843年、江戸の神田にあった安中藩板倉家江戸屋敷で藩士の子として産声をあげます。幼名七五三太(しめた)。四人姉妹の後に生まれた男の子。襄が生まれた時、祖父が、「しめた!」と喜んだ事から名付けられました。
1864年、日本の夜明けまであと4年。七五三太、元服を過ぎた21歳の時、アメリカ渡航を画策し、一人函館に潜伏します。この頃、脱国は重罪。1853年、ペリー来航に影響され渡米を画策した人は多く、吉田松陰も試みますが失敗。投獄されてしまいます。
函館でロシア領事館の司祭、ニコライ・カサートキンと出会います。七五三太はカサートキンに日本語を教え、カサートキンは弟子になるよう説得。しかし、七五三太の渡米への意思は固く、カサートキンはアメリカ渡航に力を貸します。函館からアメリカ船ベルリン号で上海へ。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換えます。(K.Y.注: ここにホレス・S・テイラー船長の写真あり)
ワイルド・ローヴァー号のテイラー船長に可愛がられ「ジョー」と呼ばれます。南アフリカを回り、大西洋を渡ってボストン上陸。(K.Y.注: ここにアルフィース・ハーディー夫妻の写真あり)
船主のアルフィース・ハーディー夫妻の援助でフィリップス・アカデミーに入学。その後、アーマスト大学、アンドーバー神学校(洗礼を受ける)に進みます。アーマスト大学では、日本人初の学位(理学士)を取得。化学の先生は、後の札幌農大学のクラーク博士。ジョーとの出会いが、クラーク博士来日の切っ掛けとなります。(K.Y.注: ここに 大学=当時の文部省 からの免状 米国留学免許候事 の写真あり)
当初、密入国者とされていたジョーでしたが、駐米大使森有礼から正式に留学生として認められます。1867年、ジョーが勉強中日本は明治に変わります。1872年(明治五年)岩倉使節団来米。ジョーは木戸孝充に語学力をかわれ、使節団とヨーロッパを歴訪。(K.Y.注: ここに岩倉使節団集合写真あり) {二列目中央黒いスーツは、心の灯台 内村鑑三(K.Y.注: 上毛カルタの「こ」の札) その横にひげを生やした 平和の使い 新島襄}
「こ」の札 軽井沢 石の教会の内村鑑三。覚えてますか?(^^)
1874年(明治七年) 11月 横浜港10年前、一人アメリカに渡ったジョーが、日本に帰ってきます。翌年1875年、同志社大学の前身同志社英学校を設立。(K.Y.注: ここに新島襄の写真と上毛カルタの「へ」の札を並べた写真あり)
教育者として、大隈重信と親交があり同志社大学と早稲田大学は、今でも学生交流制度があります。(K.Y.注: ここに 「日本キリスト教団 安中教会」 の看板の写真あり)
1878年(明治十一年)新島襄が設立した安中教会。(K.Y.注:ここに安中教会の外観写真あり)
石造りの教会。幼稚園も併設されています。132年前に建てられました。新島襄の生涯を知った後見ると感慨深いものがあります。(K.Y.注: ここに入り口のドアの写真あり)
入り口のドアも、味があります。(K.Y.注: ここに新島襄と八重の写真あり)
妻、八重さんとのツーショット。八重さんは、会津藩砲術師範の娘。戊辰戦争では、会津若松城に篭城。男装し鉄砲を持って最後まで戦い、現代では、「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれているそうです。帰国後、両親と共に安中の旧新島邸で三週間暮らし、その後、学問、キリスト教の普及活動に奔走。1890年(明治二十三年)前橋で倒れ静養先の神奈川県大磯で46年の生涯に幕を閉じます。波乱万丈の人生、人との出会いの大切さを教えてもらった気がします。
群馬の旅 上毛かるた紀行 30枚目の札 「ほ」は、「誇る文豪 田山花袋」です。
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