[1369]クレバーとシタタカサ

古本屋街の住人 投稿日:2013/09/09 15:52

その前の晩は、たくさんの来客があり、少々深酔いして、今朝(9月8日)は10時も廻ったころに目覚め、そして居間に出てきますと、家内が民放のテレビ番組を見ておりました。

まだ、幻覚状態の私にはその番組の内容が掴めず、「オリンピックはどこに決まったの?」と家内に訊くと、「東京だ」と言う。ボーとしている私は特に何も感じませんでしたが、そのまま番組を眺め続けていると、招致委員関係者の現地祝賀会会場での、お決まりの招致関係者へのインタビューが始まりました。

しかし、招致委員会の委員の一人である鈴木大地の話で、一変に私は覚醒したのです。

要約すると、こんな感じでした。

インタビュア おめでとうございます。今のお気持ちは?
鈴木  「嬉しいです。だから、こんなに酒臭いでしょう。でも今晩だけは勘弁してください。明日からはちゃんとやりますから。」

インタビュア  いろいろと大変だったでしょう!
鈴木  「いいえ、そんなにやったわけではありませんから。でもここにいない人、表には出てこない裏で活躍してくれた人を思うと、こうやって目から汗が出てきちゃあうんですよ。」

そして、お決まりのインタビューが少し続いたのですが、最後に

鈴木  「ごめんなさいね、こんなに酒臭くて」(と言ってインタビュアに息を吹きかけるマネをする)

しかし、テレビで見ている私にはどう見ても、彼は酔っていたようにも見えないし、口調もまったく酔った様子もありませんでした。
そこに彼の人間性と、クレバーさ、そして、シタタカサを見たような気がしたのです。

彼のほんとうに短い発言でしたが、招致関係メンバー間の暗黙の了解だったとしても、決して公に口にしてはいけない言葉を彼が発したようにも思えたのです。しかし、その発言で彼が自分の責任ある立場を追われることもないように、しっかり演技して、そこも防御していたようにも感じられたのです。

つまり、彼の発言を聞いて咄嗟に頭に浮かんだのは、前東京オリンピックの招致時の、日系二世、ロス在住だった『和田・フレッド・勇』さんのことです。今は故人でいらっしゃいます。

当時の東京オリンピック開催が決定された年は戦後14年経ったとき(1959年)ですが、当時の世界の多くの国の人々は、日本人が大嫌いだったと断言しても過言ではないでしょう。

日本人と言えば、例えば、メガネを掛けたチビで出っ歯な人種で、ペコペコしているが、こすからい卑怯な奴ら・・・・・と、いくらでも悪口を挙げることができます。そして、日本と言えば貧乏な国で、作り出す製品は低品質の物真似、安物。

しかも他の立候補地には、アメリカのシカゴもあり、当時のアメリカ大統領・アイゼンハワーがIOC総会に招致のための親書までも送っています。それだけではありません。東京前の開催地はすべて白人国家ですし、東京の二大会前のメルボルン大会(1956年)の時でも、金メダルを争えるような世界的実力を備えた日本人競泳選手ですら、練習・調整では白人選手が泳ぐ公式の練習プールに入れてもらえないような状況でした。

しかし、当時の招致委員には冷静沈着に状況判断と策を練れ、しかも世界を知る人たちがいたのです。
ここでそれを語ることが本旨ではないので、詳細は省きますが、シカゴに勝つ為には、そのアメリカの裏庭的な中南米諸国の票が取れれば、マイナスとプラスで倍の票になる。そのためには、一介のスーパー経営者ではあるが、中南米諸国にコネがあり、信頼も厚く、それらの国の人々の心境も知る前述の和田氏にお願いするしかないと、彼に白羽の矢を立てたのです。

だからと言って、和田氏と親交の深い日本の招致委員が個人的頼みに行って、まるで、「和田さんだったら、誠心誠意をもって彼らと話をすれば良い結果が得られはずです」みたいな頼み方すれば、和田氏だって、困惑するのみでしょうし、まずは和田氏に対して全くの礼を失している如きのストーリーで終わってしまいます。

その招致委員は当時の岸首相に和田氏宛ての親書をお願いし、それを携えて和田氏に会いに行き、お願いしたのです。

もちろん、その親書に何が書かれてあり、和田氏がメキシコを最初に訪れ、そして他の中南米諸国でどんな話をして説得にあったたのかは、私如きにはまったく知る由もありません。

しかし、私でも知っている事実はたった二つ、それは圧勝で東京開催が決まったことと(シカゴは2位)、その後、次の開催地がメキシコシティに決まったこと。

もちろん、私には政治、外交、そしてこのような外国(人)との交渉経験はまったくありませんので、別世界の話です。ただ、生きてきたというだけの経験ですが、この二つの事実が何を物語るかは、私なりの多少の勝手な類推はできます。

当時の私の年齢では、このようなことを知るはずもありませんが、この話を普通の日本人が知るようになったのは、むしろ和田氏がお亡くなりになってからだと思っています。
(もちろんその当時、そういう話は和田氏のアメリカ社会での立場やセキュリティーを顧慮して、今の我々の庶民感情論は別にして、伏せることが当然でしょう)

ここで、和田氏に礼を失することなくということを書きましたが、実はそれ以降の無頓着極まるお願いを和田氏に依頼するスポーツ競技団体組織が数々出現し始めたからです。

つまり、当時の日本の各スポーツ競技団体組織には金銭的余裕がなかったことは事実でしょうが、アメリカで開催される様々な国際競技大会に出場する日本選手対する、日常的世話や寄付金集めを和田氏にお願いしたという行為です。

もちろん、お願いするにはそれなりの話をしたのでしょうが、「母国、日本の選手のためによろしくお願いします」。
まったく、和田氏に対し、非礼極まりない話です。

つまり、和田氏の母国は日本ではなく、アメリカ合衆国なのですから。和田氏本人はそれをどう受け止めたかは全く知りませんが、ロスの日系人の間では非常な嫌悪感を持たれた話です。

少し、荒っぽい言い方ですが、私の過去の経験ですと、ロスとハワイの日系人では日本人に対する感情が異なっていました。
はっきり言って、ロスの日系人の多くの方々は日本人が嫌いでしたし、一方、ハワイの日系人の方々は日本人に親しみを覚える人が多かったように感じられました。むろん、今では私自身、ロス、ハワイ、共に長らくご無沙汰していますので、現在のことはまったく分りません。

ここで、冒頭の話に戻します。

そして今日のその後、鈴木は再びテレビのインタービューに駆り出されていますが、ここで私が紹介した話はオクビにも出していません。

それどころか、開催国としての与えられた特権に言及しています。

つまり、個人競技であれば、オリンピック標準記録にも及ばない個人競技者、もしくはオリンピック地域予選に勝ち抜けなかった団体など、これを開催国の持つ特権で推薦してオリンピックに出場させることができるのです。

そして彼の発言趣旨は、こういう競技者(団体)にもオリンピック出場に希望をもって頑張ってもらうため、この為の(オリンピック)予算を獲得できるように自分は努力したい。

つまり、ロンドンオリンピックで言えば、その特権を使って、やっと泳げるような旧植民地だったアフリカの競泳選手を、確か自由形だったと思いますが、出場させました。もちろん、結果はオリンピックでの予選で、大きく水をあけられた惨敗です。もちろん、これはイギリスのパフォーマンスですが、イギリスとしての貴族の沽券を世界に見せつけようとしたのです。

話が逸れついでの蛇足ですが、前回の東京オリンピック当時の開催国の特権は、その大会に限り、一つの競技だけですが、オリンピック正式種目とすることができたのです。
それが柔道でした。

柔道と言えば、私にとって真っ先に思い浮かべるのは嘉納治五郎です。当時、スポーツという概念がなかった明治の日本で、それまで柔術として戦場で戦う術として発達してきた各諸派を纏めて、スポーツとしての概念を入れた「柔道」の礎を作った人です。

つまり、西洋から見れば、開国したばかりの汚い奇妙な後進国であった小人(コビト)の国、日本にあって、彼はその貴族然としての立ち振る舞いと、「柔よく剛を制す」を外国で実践して見せ、大男達を投げつけ、西洋各国に人脈を着々と築きあげていきました。そして、幻で終わってしまいましたが、1940年の東京オリンピック開催に彼の人脈と政治力(交渉力)が大きく寄与したのは事実だと思っています。

話逸れついでに行きますと、私の自宅から講道館は15分程度のところにあります。そんな地理的な関係から、柔道金メダリストの山下や前柔道男子日本代表監督のSを、道通りすがら程度ですが、見かけたことがあります。

Sは付け人のように数人を従えて、首と手首に金ピカじゃらじゃらを付けて、小脇に小カバンを抱え、その体格と風貌からして、まるで、あの業界の人であるが如く。そして山下は、「エッ、今のは山下じゃない」と振り返るような地味で目立たぬ感じを受けました。

ですから、Sがその後、柔道男子日本代表監督に就いた時には私は暗雲を感じたことがありました。たまたまでしょうが、結果、その時の男子柔道のオリンピック成績はその通りでした。

昨年からの柔道界の一連の不祥事の表面化から、やっと山下が協会の表舞台に出てきた時、彼のまるで徳川家康の如く、「ホトトギスが鳴くまで」待ったという、したたかさを、希望をこめて見たような気がします。

柔道界という組織に於いては、講道館柔道、警察柔道、そして学生柔道という三つの世界で組織が成り立っていることも私は知っているつもりです。

もちろん格式に於いては講道館ですが、実際の力を持つのは警察柔道で、そこに寄り添いながら力を維持してきたのは学生柔道界の名門校です。

しかし、近年ここに来て日本柔道界に危機感を覚えていた人たちの力が結集してきたようです。

それが、柔道女子日本代表監督(警察が出身母体)が女子選手に対するセクハラと暴力の表面化で辞任に追い込まれ、ついで成績不振にも拘らず、次のオリンピックにも続投が認められていたSも辞任に追い込まれました。さらには、その巻き返しができないようにの如く、Sの母校である天理大柔道部のちょっと古い暴力不祥事件が、最近、表沙汰になったところは記憶に新しいところです。

私の話が纏まりのつかないところですが、鈴木大地と言えば、ソウルオリンピックの背泳100mの金メダリストですが、バサロ泳法(キック)の長所を上手く使い、短所を知り尽くし、長身が有利な背泳において大きな選手を相手して小柄ながらも、ほんのタッチの差で勝利を手にした競泳選手でした。

それほどの緻密な選手でしたが、レース後のインタビューでは、「本番のプレッシャーで計算していたよりも早く浮き上がってしましました」と、本音を率直に述べていたことも記憶しています。

(その後、バサロキックはスタートとターンから15m以内と規定が変更になっています)

また、和田氏の活躍を依頼した組織委員は鈴木と同じ競泳出身者でしたので、引退後の鈴木は近いところでそういう話を聞き、そういう人たちから、その頭脳と人間性を見込まれ、組織のトップとしてのエリート教育を受けていたのかもしれません。

しかし、当時とは違い、今の時代及び社会状況等から、思い出話ではなく、一回でも一言でも、そういう人(達)を公に口にすべきだと彼は思っていたのかもしれません。

ここでは、オリンピックの意義とか、影響等の様々の議論は別な角度の話として、そういう『クレバーで、したたかな』円熟期をこれから迎えようとしている日本人たちが日本にいることを知り、そして確信できたという、私にとっては良い一日を述べたに過ぎません。

まあ、次の東京開催まで私が生きているか、どうか、これも全く別な話です。