[1362][中国人の本性」と「時代を見通す力」を読んで

田中進二郎 投稿日:2013/08/26 07:31

副題:水戸藩の尊王攘夷思想について(2) 投稿者:田中進二郎
8/15に「重たい掲示板」に水戸の尊王攘夷運動が天狗党の乱(1864年)以後、水戸藩の内乱がどういう結末になったか、ということについて書きました。
もうすこし、調べてみたところ、このすさまじい内乱(内ゲバ)について、ライフ・ワークとして研究されている会田良守という方のサイトが総合的にみて精確である、と思われるので、↓をごらんください。

「幕末水戸藩の顛末(てんまつ)」 http://www.yosimori.net/mitotenmatu2.html

信じられないことですが、約3000名からの幕末動乱期の水戸藩の戦没者の名前と死因について、「水戸藩殉職者名簿1~4」のコーナーで列挙されています。しかも、この3000人という数字は名前がわかっているだけの数字であるから、やはり名もなき農民たちの犠牲者まで考えると、5000人以上は死んでいるでしょう。藤田東湖の死1855(安政2)年から、1864年の天狗党の乱の開始、そして1873年(明治6年)まで続く、藩内の闘争で水戸藩は疲弊(ひへい)して、明治時代には、治めることが難しい「難治県」に指定されたということが書かれています。
これはやはり、幕末史のタブーの一つだと思います。到底、NHK大河ドラマで取り上げられることはありえない歴史だ。
さらに時代をさかのぼって、徳川光圀の虚像の裏に何があるのかについても、倉田氏の研究は示唆してくれることが多いと思う。

たとえば、殉職者名簿の死因の多くは、「獄死」となっている(唖然、呆然としてしまう数である。)が、水戸藩は江戸時代初期から各所に牢獄があった。時代劇の水戸黄門の「水戸のご老公さま」の優しいイメージとは裏腹だ。(初代水戸藩主は徳川頼房、家康の第11子で二代藩主が頼房の次男光圀である。)
「水戸藩は意外と厳しい藩であった。獄に入れられ3年がたつと斬首か毒殺される、ということになっていた。」(↑の会田氏の文より引用)

吉村昭の『天狗争乱』にも、赤沼獄(水戸市)についての記述があります。
『天狗争乱』新潮文庫  p217より引用します。
(引用開始)
 市川三左衛門ら門閥派と尊攘派との対立は古く、一方が他方を壊滅させて藩政の要職を占めると、やがて巻き返しにでて追い払うことの繰り返しであった。そのため、互いの憎悪は激烈で、藩政の権力をにぎった市川らは、武田耕雲斎(尊攘派・天狗党)らを賊徒として、(彼らの)乳のみ子を含む家族たちを牢に投じたのである。
 
 獄舎の環境はきわめて悪く、あたえられる食物も劣悪で、病にかかれば治療もくわえられず死を迎えなければならない。これらの者たちを投獄したことは、死を強いることと同じであった。
(引用終わり)

田中進二郎です。
これをたとえば長州藩の牢獄と比べてみると、えらい違いだ、と思う。
吉田松陰は1854年、下田に停泊していたペリーの旗艦に乗り込もうとして、不審者として幕府側に引き渡された。
副島先生の著書『時代を見通す力』(PHP)にも、次のようにある。
p128より引用します。
(『時代を見通す力』より引用開始)

吉田松陰はこのあと幕府で厳しい取調べを受けたあと、囚人として駕籠に入れられて萩に護送される。そして野山獄(のやまごく)という長州藩の政治犯たちが入れられる牢獄に入れられる。そこで上級の囚人(武士たち)に説いてきかせたものが、『講孟さつ記』だ。だから演説調にできている。周りの囚人たちに話しながら書物にした。孔子と孟子の思想について論じるというふりをしながら、朱子学(徳川幕府の体制の学)を批判して尊王と倒幕の思想を表明した。そのあと釈放されて、家に帰る。
(引用終わり)

田中進二郎です。確かある伝記には、野山獄で吉田松陰は玉木文之進らが差し入れした、千冊以上の書籍を読んでいた、と書かれていた。このすさまじい学習意欲が尊王攘夷の原動力だと、昔から私は考えてきた。今風にいえば佐藤優氏(さとう まさる)でしょう。
ともかく、水戸藩の牢獄のように、入牢=死という悲惨な状況とは雲泥の違いだ。

吉田松陰は29年の短い人生の間に5回も水戸に足を運んでいる。そして、藤田東湖と会って、水戸学を学んだ。西郷隆盛もそうだった。

幕末水戸藩は、尊王攘夷の思想の最先端を突き進んでいたが、金はなく武士たちも貧乏であったようだ。だから牢屋の管理すら、水戸藩にはできなかった。暮らしをよくしようという考えが、水戸光圀公以来藩全体に乏しかったのであろう。
↑の会田氏の長大な考察は、水戸藩の慢性的な財政難を指摘している。
私が不可思議に思うのは、水戸藩は江戸時代を中心に幕府から、何度も財政援助をうけている。参勤交代も特別に免除されていたのである。それなのに、水戸藩は尊王攘夷(表だってはいわないが「倒幕」が裏には隠されていた。)に取り憑かれた。
徳川家一門の内部で、憎悪が200年続いて、それが幕末に爆発している。これはよっほどのことであろう。徳川家は一枚岩どころか、幕府をつぶしたくてつぶしたくてたまらなかったのであろう。そういう激しい親殺し的な思考(ドストエフスキー的なといってもいいような狂気を感じる)はどこからでてきたのであろうかということである。

途中になってしまったが、幕末水戸藩の歴史についてはここで筆をおきたい。失礼します。
田中進二郎拝