[1344]TPPと自由貿易

大川晴美 投稿日:2013/07/27 08:21

会員の大川です。中野剛志「反・自由貿易論」(新潮新書、2013年)と中野剛志・編「TPP黒い条約」(集英社新書、2013年)に基づいて、以下、TPPと自由貿易について述べます。

TPP(環太平洋経済連携協定)の最大の問題は、ISD条項である。にもかかわらず、TPPの主要な論点は関税撤廃や農業問題であるかのような議論ばかりが横行している。

ISD条項とは、外国投資家と国家の間の貿易紛争解決を定める条文で、Investor-State Dispute Settlement条項の略称である。ISDS条項ともいう。そしてISD条項の最大の問題は、ある国が法律や規制を変更したことによって外国投資家が損害を被ったという理由で、国際投資家裁判所という特殊な裁判所にその国の政府を訴えることができ、被告の政府をこの裁判所に引っ張り出す強制力を持つことである。これによって、各国固有の法律や制度を一方的に変更させることができるようになる。そのため、ISD条項はグローバル企業に対して国家権力を超える強大な権限を付与し、協定締結国の国民主権や国内の法秩序を破壊するものだという強い批判がある。そして、農業はもちろん、国内のあらゆる産業、安全規制や環境規制、法体系に至るまで、経済・社会に甚大な影響を与える。

実際に北米自由貿易協定(NAFTA)の締結国で、ISD条項に基づく訴訟が急増している。米韓FTA交渉でISD条項が議論されたとき、韓国法務省は「ISD条項は憲法秩序を危うくする」として反対したが、結局、米国側に押し切られたという。しかも、国際投資家裁判所がどのような判決を下すのか、事前に予測するのは不可能であるらしい。(中野剛志・編「TPP黒い条約」第三章 岩月浩二「国家主権を脅かすISD条項の恐怖」)

日本国民はTPPの全体像を正確に知らされず、関税撤廃のような偏った情報だけに基づいてTPPの是非を判断するように誘導されている。現在では、関税よりも為替相場や、知的財産制度、安全・環境規制のような国内の各種規制・制度のほうが、貿易に与える影響がはるかに大きくなっているが、このことを指摘する専門家や政策担当者は少ない。もともと情報が偏っているうえに、TPP交渉には非常に厳しい守秘義務が課されているから、今後も日本国民に交渉過程の正確な情報が伝わることはあり得ない。

日本は何のためにTPPに参加するのだろうか。私は中野氏の「反・自由貿易論」を読んで、自由貿易は善、保護貿易は悪、という思い込みについて深く考えさせられた。「反・自由貿易論」で中野氏は、19世紀のイギリス、フランス、ドイツは、必ずしも常に自由貿易を推進していたわけではなく、高い関税や補助金、政策金融、産業保護規制など、さまざまな保護主義的政策を採用し、貿易も拡大していったという。アメリカも、建国から第二次世界大戦前までは最も保護主義的な国であり、かつそれによって最も成功した国であったという。(P.55-p.68)

歴史を振り返れば、自由貿易は必ずしも良いものではなかった。このように言うと、「リカードの比較優位論も知らないのか」、とか、「ヘクシャー=オリーンの定理も知らないのか」、とバカにされる風潮がある。しかし、これらの理論は、いくつかの非現実的な前提条件を満たした場合にのみ成立するものである。理論が現実に合わない場合は理論のほうに問題がある、という主張は、言われてみればそのとおりだ。

日本は、東西冷戦時代に輸出主導で高度経済成長を達成した経験があるために、この成功体験から発想を転換することが未だにできないでいる。しかし、冷戦終結後20年以上が経過し、世界は激変した。モノが国境を超えるだけでなく、おカネが世界を動き回り、製造業は海外移転し、会計基準や知的財産制度やさまざまな規制が世界標準化される時代となった。国際経済学の分野でも、従来の定説を覆すような研究成果が次々と発表されていることを知った。「第二次世界大戦が引き起こされた原因の1つは保護貿易であった」という通説を否定する研究成果もあるという。

中野氏の「反・自由貿易論」は、99%の人類を貧しくするグローバリズムへの強烈な批判の書である。今の日本には、歴史に学び、世界の現実を直視し、未来を考えるための深い思想が決定的に欠けている。TPPに限らず、放射能、活断層、消費税、安全保障、すべてにおいて浅薄で非科学的で扇動的な議論ばかりが横行し、日本人の知的水準が恐ろしいほど低下し続けている。だから、誰も中野氏に説得力のある反論ができない。昨日ふと思いついて、日本の全国紙の社説を隅から隅まで探してみたが、TPPについて多少とも中身のある文章は、ついに1つも見つけられなかった。

これから日本では、TPPによって一握りの巨大グローバル企業だけが繁栄し、勤労者はますます貧しくなり、貧困層が激増することになるだろう。

大川晴美