[1263]清水幾太郎著 『オーギュスト・コント』を読んで(1)
今日のぼやき」(1374)日本の「主権者」は一体誰なのか を読んで
田中進二郎
副島先生が「今日のぼやき」(1374 会員のみ)で『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』の第4章について加筆されています。一部だけ引用させていただきます。
(引用開始)
アメリカ政治思想の対立を、さらにその源流であるイギリスからもたらされたヨーロッパ全体の政治思想と法思想の体系図を含めて明瞭に描き出し、そして説明した。
(中略)
ポジティブ・ラー のもとになった人定法(じんていほう)という思想の原理であるところのポジティビズム(positivism)というものについても私は述べている。これは日本では実証主義という言葉で訳してきたが、これが大変な大間違いで、意味不明である。本当は人間たちが決めるという思想である。それに神(天)が決めるのではないという考え方である。 そして、このポジティビズムをつくったのは、フランスの1830~1840年代の思想家である オーギュスト・コント(1798~1857) という男である。コントが、cause and effect(原因と結果)という考え方に基づいてつくった。そして、このcause and effect(原因と結果)という思想でコーザリティとも言う。AゆえにB、BゆえにC、CゆえにDという論述の仕方を定めた。これが因果律(いんがりつ)と訳すとおかしくなるが、このコーザリティ、原因と結果という考え方で全てのサイエンスの論文を書くことをはっきりと定めた。 だから、このオーギュスト・コントこそは、この人定(法)思想の創始者であり、フランス革命から後40~50年でフランス社会に出現した、学歴は何にもないのだが、10巻本ぐらいのすばらしい大論文集を書いた人物である。このコントのポジティビズムから学んだイギリスやドイツの知識人たちが、社会学(ソシオロジー)とか経済学(エコノミックス)の論述の仕方等をつくっていったのである。だから、このポジティビズムという、神ではない人間が決めるのだという思想を中心に政治思想と国家体制論を考えなければいけないのである。
(引用終わり)
田中です。オーギュスト・コントの人定法思想(ポジティヴィズム 実証主義)が18世紀後半に隆盛した啓蒙主義の自然権(ナチュラル・ライツ)とどのような対立があるのかについて、副島先生が大きな流れを解説してくださっています。
また私が読んだ限りでは、「副島隆彦の論文教室」に鴨川光(かもがわひろし)氏の論文(『サイエンス=学問体系の全体像』の(28から31)(論文番号162から166)の内容がサン・シモンとオーギュスト・コントの社会理論や社会学とは何かについて、鋭く論じておられるので、非常に納得できました。
お二人の文章に匹敵するものなど書けるはずもありませんが、清水幾多郎(しみず いくたろう 1907-1988)の『オーギュスト・コント-社会学とは何か』(岩波新書 黄版)を読み直し、啓蒙主義からコントの社会学への流れについて書こうと、思います。(二回に分けます。)
清水幾太郎は大学2年のとき、(1929年)にオーギュスト・コントの研究を始めたという。
マルクス主義者であった、清水にとってマルクス主義の魅力とは、ブハーリン(1888-1938)に負うところが大きかったという。彼の「史的唯物論」(1921年刊)に影響を受けていた。ブハーリンは、史的唯物論をマルクス主義社会学と考え、マックス・ウェーバーやジンメルを批判した。しかし、1920年代終わりころには、「正統」とはみなされなくなっていた。後にスターリンの権力が増大していくにつれ、トロツキーに続き、ブハーリンも失脚し、1938年裁判によって、スパイと宣告され銃殺される。
清水は教条化していくマルクス主義に深い懐疑を抱き、そのときにマルクス主義そのものが、評判の悪いオーギュスト・コントの「総合社会学」の一種ではないのか、と考えはじめたという。
(この「総合」の意味について、鴨川さんの上記の論文『全体像』(31)をごらんください。)
オーギュスト・コントはフランス革命が破壊した、アンシャン・レジーム(旧体制)側の家系に生まれている。父は土地の徴税官であり、両親ともに熱心なカトリック信者であった上に王党派であった。オーギュスト・コントの本名には、あのスペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルからとられた、グザヴィエ(Xavier)がついている。
ロベスピエールが1794年にギロチン刑にかけられた4年後に彼は誕生した。
コントが17歳の青年になったときには、ナポレオンはセント・ヘレナ島に島流しにされ、フランスは王政復古(Restauration)した。25年ぶりにフランスに平和が訪れた。
ナポレオンの軍事的栄光.は消え、啓蒙思想家が説いた人権の思想・社会契約論は19世紀にあっては虚偽になっていた。「コントは若くして老いた」と清水は書いている。
絶対者の思想がこのとき廃棄された。代わって、相対の思想が登場した。コントは「一切は相対的である。それが唯一の絶対的原理である。」と『実証政治学体系』(1824年)で述べている。
19歳のときに、コントはサン・シモンのもとで彼の著述の助手を行うことになる。
サン・シモン(1760-1825)はアメリカ独立戦争の時には、フランスの援軍の砲兵隊長として、アメリカ独立軍とともにイギリス軍と戦い、独立戦争最後の戦い、ヨークタウンの戦いでも活躍した人物である。
フランス革命時には貴族の家柄であったことが災いして牢獄に入れられ、ギロチン刑にかけられるところであったが、ロベスピエールが先に断頭台に消えたために、死なずにすんだ。
彼は革命というものに心底から懲りた人間であった。40歳のサン・シモンがコントに「何があっても革命だけはいけない。」と教えたとき、コントの心の中に転向、あるいは回心が起こった。
時代もまた、革命から、産業発展へと移りかわっていた。啓蒙主義の「自由・平等・博愛」から「産業・平和・自由」へと世論の求めるものも、抽象的な理念から、現実的な利益になっていた。
(以上 同上書p62より)
サン・シモンはこの機を逃さず、1816年に『産業』(全4巻)を著した。この書物の中で
、王侯・貴族ではなく、実際に有益な労働に従事する産業者(les industriels)こそが社会の担い手である、と説いた。
清水幾太郎が指摘するのは、産業革命期に入り、industryの意味が変容したという点である。もとは『発明』を意味する言葉であったが、『機械の使用による物質の変形』へシフトした。のみならず、industrieは意味を大きく乗り越えて、『すべての平和的で有用な活動』をさすようになった、という。(p74)
確かに英語のindustrious にその意味がありますね。
サン・シモンのいう「産業者」は同時にこの二つを指している。すなわち、発明を行う「科学者」(理論)と、「直接的生産者」(実践)を同盟させたのである。
ところでルソーの『エミール』には「市民」と「芸術家」を上手にわけて教育しましょう、という理想教育が説かれている。が、ルソーのいう「市民」とはなんと抽象的な市民であるとか。これに比して、サン・シモンは現実的な人間関係の中から、役に立つ人間を摘出しようとする。その意味で、彼が『階級』の発見者であるといわれている。
『サン・シモン著作集』(森博 訳)の中の『組織者』(1819年)という論文には「サン・シモンの寓話」として知られる話がある。それには「王侯・貴族が何千人といなくなったとしても、世の中はきちんと動くことであろう。だが、フランス国内の数千の産業者がある日突然姿を消してしまったら、一体この国はどうなってしまうだろう。」
というようなことが書かれている。
これはアイン・ランドの『肩をすくめたアトラス』の小説と設定がよく似ているな、と思います。
つまり、サン・シモンの構想する産業社会は社会有用の人間、社会において重きをなす人間と、余剰でもある人間とに大別できるということでしょう。
コントの「人定法(実証主義)」については稿を改めて書きます。
田中進二郎拝