[1257]“縁起”“空(くう)”は政治思想にはなりえるのでしょうか

福田 博之 投稿日:2013/04/21 08:46

“縁起”“空(くう)”は政治思想にはなりえるのでしょうか

この投稿は、会員サイト「1374」を読んでから、書いたものなので、
タダ見のかたは会員になって、「1374」を読んでからでないと、
私の稚拙な文章との相乗効果で、文脈が分かりにくいかもしれません。
あらかじめ、ご了承ください。

【言いたいこと】

ポジティブラーとナチュラルラーのどちらにも属さず、
“縁起”や“空(くう)”の思想は、その上位概念としての政治思想にはなりえるのでしょうか。
仏教思想というだけの位置づけにしておくにはもったいない思想だと思います。

【1374を読んで考えたこと】

“支配権”“課税権”“徴兵権”“選挙権”
これらは、ポジティブラーとして、支配システムのピラミッド、序列構造のうちにおかれます。
代表者ではない庶民は、“主権者”ではなく、“投票権”をもつという意味での“有権者”となります。

“基本的人権”
「人間みんな、うんち袋」。 ナチュラルラーとして、人間も自然の一部であり、
平等な儚い生命としての“自然権”をもつ有権者となります。

“基本的人権”を憲法上の取り決めとする、
「人間たちが自分で決める」という契約やルールによる思想では、
時代によって異なる価値観、ものさし、社会環境によってできた序列により、
人間の金額に大小をつける思想につながっていきます。
現実の運用では人間の命に金額を設定する必要もありますが、
“基本的人権”は“自然権”としてとらえる思想のほうが、私は理解しやすいです。

政治を、ナチュラルラーではなくポジティブラーで考えなければならないというのは、
多くの自然権が支配権により踏みにじられているからだと思いますが、 
“弱肉強食という自然の掟”、これもナチュラルラーだと思います。 
自然界に属する人間界で、弱い強いを決める“力”とは、
資本主義では“お金”となるのは当然の事でしょう。

自己が、遺伝子と経験の組み合わせによる、不確実性的な結果で成り立つのなら、
コミュニタリアニズム的考えでもありますが、つながりに基づいた自己があり、
その境遇の恩恵や弊害による影響をうけて序列が位置づけられていきます。

相続された優位性や、人工的システムによって造られた序列の頂上に位置する巨大権力から、
他者の多くの自然権を守るためには、同じく人工的に憲法で所有権を設定し、
リバータリアニズム的に個人の自由と所有権を尊重する必要があります。

弱肉強食という自然法が、固定化と制度の弊害という、“人定的な弱肉強食”となったものを、
同じく人定的に調整をする。
お腹がいっぱいになったら満足をして寝るという動物と違い、
人間の際限のない欲に歯止めをかけるために、強者の自然法を憲法で人定的に制限する。
殺してはいけない。盗んではいけないなど。
ホッブズの「万人の万人に対する闘争」と表現される状態は、
自然の弱肉強食ではなく、“人定的な弱肉強食”である為、たちが悪いものだと思います。

社会で這い上がり、自由を獲得しようと努めることが重要という考え方があります。
這い上がりの精神が、権力者迎合の精神とならず、既得権益にとりこまれず、
自分以外の多くの人間を幸福にするという、崇高な政治的精神となるためには、
求道精神が必要だと思います。権力者には求道精神が求められます。
ただ、これはきれい事です。
権力者も自分の合理的選択をしているのでしょう。
権力は必ず腐敗するので、チェックや歯止めの機能が必要だと思います。

思想の自由は、他人の評価や権威のうちに存在しているのではなく、
求道の精神によって維持されているものだと思います。
“道”とはなにか。各々のパースペクティブによって道は異なるものだと思います。

政治とは一部の権力者、選民的市民の為のものなのでしょうか。
デモクラシーは、世論誘導により衆愚政治『民衆の反逆』になると言われます。
情報と説明責任、市民の情熱が不可欠だと言われます。

選挙権をもつ有権者の多くが、“市民”ではなく、市民とは呼べない“庶民”だとすると、

「お上(かみ)によって構成された、庶民もお上(かみ)を選べる、庶民もおこぼれにあやかれる政府」

「主権者による、民衆が選挙する、人間の為の政府」

これが、日本のデモクラシーが目指す姿なのでしょうか。

代表者は資本主義社会における、這い上がりの精神で既得権益に取り込まれ、
選挙によらない官僚によって支配され、
資本という力で、洗脳装置が有効に機能している。

デモクラシーが有害だと批判するかたもいます。
だからと言って、権力の暴走に歯止めをかける装置が、
デモクラシー以外に見当たりません。
国体維持と優秀な官僚がいる日本で、
選民市民による共和制への移行など、私には他の手段や革命の可能性は思いつきません。
発言力・発信力・影響力がない庶民、
されど人数は最も多い庶民、庶民の為の政治とは存在するのでしょうか。
また庶民は這い上がりの精神で、選民的市民を目指す以外にないのでしょうか。
庶民が幸福な庶民であり続けられる世の中となる為には、どのような思想が必要なのでしょうか。

二世議員が多く存在する現実の中、コネや教育環境の差の存在という現実があるなか、
どちらかというと庶民のなかでの這い上がり者は例外であり、例外であるから称賛されるのでしょう。
例外以外の多くの人間を軽視するような政治のあり方でよいのでしょうか。
そのような政治が庶民の活力を生みだせるのでしょうか、また生みだす必要はないのでしょうか。
資本主義的に評価されないような生き方を選んだ場合、
その人間には生存権はないのでしょうか。生存権はあっても選挙権は、はく奪されるべきなのでしょうか。

政治は大企業優遇を推進し、個人の経営者にはますます生き残りが厳しい政策が進められています。
情報の共有や、購買力強化で団結する経営者もいます。
一方、経営者ではない存在として、御用メディアと呼ばれる報道機関で働く、企業の社員がいます。
支配側の装置で働く労働者という存在により、支配システムが維持されています。
資本主義の論理では、資本の蓄積が力なので、今後も企業グループの大規模化、
統治システムの構築が進み、大企業グループのトップ層と従業員との賃金格差も拡大するのでしょう。
そうなると、今後、いわゆる“経営者”といわれる現在の選民的市民の数は減らされていくのでしょうか。
中小企業の経営者や、「社長!」と呼ばれている従業員をもたない経営者“独立の士”は
減らされていくのでしょうか。

大企業幹部、昇進して労働組合から抜けた中間管理職社員でも選民的市民だという事ならば、
企業の労働者は、出世を目指す生き方か、知識技能を得て退社して独立する生き方のみが肯定されます。
大企業の多くの従業員は、洗脳新聞の影響もあり、会社の利益=自分の利益と思いこみ、
情報が得られないために、洗脳装置が有効にはたらくので、
支配者層からは投票権をもつ有権者としては問題にならないのでしょう。
会社のトップ層が望むべき政策と、賃金労働者であり消費者としての望むべき政策では違うという事に
多くの人間が気が付けば、政治は数なので賃金労働者である庶民の投票権は無視できず、
政治的にも徐々に存在感が高まっていくのではないでしょうか。

現在も農業票という言葉がありますが、農業の組織化が進み、土地所有者が小作人、
農業労働者となった場合、その従業員の投票権は引き続き無視できないのではないでしょうか。

庶民から成り上がった政治家は、権力者だから暴走するのは当たり前。
政治を動かす力は金だから、政治家は金の出どころを優遇するのが当たり前。
政治参加意識が高い、投票権保有者を政治家が重視するのは当たり前。
その為、金がない庶民は、選挙権という唯一の力の行使のためには情報が必要で、
情報を得る仕組みが成長しないので既得権益が安泰でいられる。
権力にすり寄り、金持ちにすりより、そして利用される国家ができあがっている。
それが資本主義社会の姿に私には映ります。

労働者は団結しても、洗脳されれば、既得権益に投票するだけ。
労働者は団結しても、暴れれば、弾圧されるだけ。
まず、労働者に最低限必要なのは、“情報”と“不正ではない選挙”だと思います。
まずはここからではないでしょうか。

【まとめ】

・企業は労働者なしでは存在しない。
・国は庶民なしでは存在しない。
・世の中はお互いが関わり合いの中で存在している。
・人間は自然の一部である。
・弱肉強食はナチュラルラーである。
・人定的弱肉強食は人定的権力でしか調整できない。
・“法”も現実的には恣意的に解釈される“うつろうもの”で絶対的なものではない。

“自然”を、神が創ったものとして、キリスト教的権威と結びつけるのではなく、
人間の識別作用として目に見えるもの“色(しき)”として捉え、時代によって存在自体も
人間の決め事によって見方も変わる、うつろう“空(くう)”だとすれば、キリスト教的権威に
批判的なかたにも受け入れやすい、自然法も人定法も両方を取り込んだ思想に発展できないでしょうか。
“縁起”、“空(くう)”の思想は、自然法も人定法も、両方の関わりあいの存在を認め、
組織や国や自然が、あらゆる階級や強い弱いの差があるものたちで成り立っていることを前提として、
それぞれの存在を貴ぶ、平和的政治思想に発展できないものでしょうか。

【参考文献と抜粋】

『お釈迦さまの脳科学』苫米地英人
P71
「空」は、釈迦が説いた「縁起」の思想にも通じるだけでなく、
不確定性原理や量子力学にも合致しています。

『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
P138
グリムの定理を覆すことのできる哲学者や宗教学者はいません。なぜかといえば、
覆すためには、ゲーテルとチャイテンの定理が間違っていると証明しなくてはなり
ません。そのためには、数学が完全であると証明しなくてはならないことになり、そ
れは不可能なことです。

『はじめてのニーチェ』適菜収
P55
「民主主義もキリスト教も、畜群(低能動物の群れ)が権力をにぎる社会形態である。

P57
デモクラシーという言葉があります。
これは、デモス(民衆)とクラティア(支配)がくっついた言葉です。

民衆は世論やマスコミに動かされます。

P58
「すなはち民主主義的運動は、キリスト教の運動の継承にほかならないのだ」

民主主義とは偉大な人間を「神」の名において抑圧し、価値のない人間を持ちあげる
システムです。

「下層民」の支配形態

P62
人類は、民主主義により自由や権利を失ったのです。
本来、それらの諸価値は闘争により勝ちとるべきものだった。それを得ようと努力する過程
において価値をもったのです。

『清貧の思想』中野孝次(草思社)
P32
フィリップ・メイソン『英国の紳士』(金谷展雄訳 晶文社)という本を読んで、そこにジェントルマンの
特徴と記されているものが、この『本阿弥行状記』の記すところと共通しているのを発見して愉快を覚えた。

「ウィルにとって名誉とは、ただ世間の評判のことではなく、自尊心を
―従って高潔、無欠、自足を―意味した。

名誉とは自尊心のことであり、無形の人格にかかわることである

P54
求道一筋(ぐどうひとすじ)

良寛の「常に吾が道の孤なるを嘆ぜり」は、そういう自分の生き方の孤独を嘆ずる気持から出
た言葉だという気がする。そういう良寛には、出家しても寺というもう一つの世間の中で名利を
求めるような生き方は、端からする気もなかったし出来なかったろうと思うのだ。

P121
思想というものは、形あるもののように所有すれば持っているということ
になるものではない。それはそれを体験しているところにだけ生きているもので、体験しおえて
形にしてしまえば、それを創造した人間にとってさえ、それはもはや自分を離れた客観物になっ
てしまうのである。

P139
まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰が知り、誰が伝へん。
これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。
本(もと)より、賢愚・得失の境(さかい)にをらざればなり。
『徒然草』吉田兼好