[1223]石堂清倫の陸軍批判・情報武官小野寺信について

田中進二郎 投稿日:2013/02/25 03:06

前回の訂正、石堂清倫の陸軍批判と情報武官小野寺信について
田中進二郎です。二週間前に投稿した『アジア人同士戦わず』の思想の源流を探る、についていくつかの間違いがありました。遅くなりましたがお詫び、訂正します。

(前回の間違い箇所1)
「1941年12月8日の真珠湾攻撃の当初から、「八百長」戦争であったわけで、フランクリン・D・ルーズベルトはハワイのパールハーバーに、太平洋艦隊を囮(おとり)として攻撃させる戦術(作戦)を用いた。また日本軍は日本軍で、太平洋艦隊を「奇襲」攻撃した後、第二次攻撃の命令を待っている航空隊に、「攻撃は終了、帰って来い」という命令を出している。
そのころ、ルーズベルト大統領はパーティーで婦人たちに、「もうすぐ、日本が攻撃してくるころだ。ハハハ」と笑みをうかべていた。
そして、その後にあの有名な“Remember  Pearlhabour”の演説となるのである。

(参考 「真珠湾の真実」(ルーズベルト欺瞞の日々)ロバート・スティネット著 文芸春秋 ほか この本は副島先生も「必読だ。」と著書で書かれている。)」
と書きましたが、「もしや」と思って調べてみたら、上に書かれていること全てが副島先生の『時代を見通す力』(PHP研究所)のP296~298に書かれている事柄でした。
(ただし「八百長」戦争という言葉は私田中が勝手に書いたものです。)

(前回の間違い箇所2)
「石堂清倫(いしどう きよとも 1904~2001年)が97歳の高齢でなくなられるまえに
グラムシ・シンポジウムというのがあった。アントニオ・グラムシ(イタリア共産党の創設者のひとり ベニト・ムッソリーニのライヴァルだった。)研究家や社会思想家が石堂さんを囲み、グラムシ思想について研究の発表をするという会で、確か、ロマーノ・ヴルピッタ氏が開会の辞を述べていた。ヴルピッタ氏というのは「ムッソリーニ」(中公叢書)の著者で、昨年の六月に「今日のぼやき」(1310 広報ぼやき)で吉田祐二さんが紹介されたの
でご記憶の方も多いだろう。また石堂さんはまさにロシア革命からソ連邦崩壊までの社会主義の世界をずっと生きてきたような、日本の左翼知識人の元祖である。」
と書きましたが、ロマーノ・ヴルピッタ氏ではなく、、グラムシ・ローマ研究所所長ジュセッペ・ヴァッカ氏の間違いでした。(ヴルピッタとヴァッカを間違えるなんて私もバカである。失礼しました)

石堂清倫が日本の軍部がいかに戦略を持たずに、日中戦争を行ったかについて批判している文章があったので、引用します。
(「ヘゲモニー思想と変革への道』~革命の世紀を生きて 第一章より
引用開始)  

 日本の中国侵略戦争の教訓
 第二次世界戦争は世界史におけるひとつの転折点であったといわれる。その一方の主役である日本の、十五年にわたる中国侵略について、戦後いくたの研究がなされ、日本帝国主義の特殊侵略的な性格に反省が加えられたことは事実である。その一方で、歴代の内閣閣僚が戦没者の英霊を慰めると称して、靖国神社に示威的に参拝していることに象徴されるように、形をかえた侵略思想が維持されていることもまた事実である。

 一九三一年九月一八日に始まる満洲の軍事占領の結果として、カイライ国家満洲国が建設されたとき、軍部はこれを王道楽土と称した。満洲は実態としては軍事国家であったが、侵略当事者が「王道」、すなわち道徳による統治の看板をあたえたのは痛烈な皮肉であった。われわれの世代のものは、軍民を問わず、青年期に儒教的教養を身につけている。孔子や孟子を大なり小なり読んでいるのである。その孟子は、武力統治を覇道として斥け、道徳による統治を王道として尊重した。関東軍首脳の人びとは陸軍幼年学校、士官学校、そして陸軍大学で何回も王覇の別を教わったはずである。彼らが何ひとつ学ばなかった例はこれだけでなく、とりわけ、教科として重視された孫子や呉子の兵法に反する戦略をとりつづけて敗戦に至ったこととあわせて、よく記憶すべきことであろう。

 ついでに言えば、政治における理と力は孟子に始まるわけでなく、彼より三世紀も前にすでに墨子にその兼愛説にもとづく「非攻」すなわち戦争反対論の一節がある。孟子や墨子ほど有名でないが後漢の王充(二七-七七?)の『論衡』巻十に、国を統治するには第一に徳を養い、第二に力を養うことであり、徳を尊ぶならば戦うことなしに同意させることができるという一節がある。

 日本人のあいだに普及していた王覇の論が道徳的・倫理的同意形成の政治理論に発展しなかった経過は別に論じなければならないが、このヘゲモニーの事実は日本の中国侵略戦争の経過でも見聞することができたのである。とくに三〇年代後半の日本軍と中国軍との交戦が、しだいに後者に有利に傾き、時がたつにつれ中国軍が個々の会戦に勝利していることをわれわれは知っていた。国民政府軍と人民解放軍との内戦段階では、それがいっそう際だつようになった。

勝利がたんに軍事技術的に得られるだけでなく思想戦としても展開され、戦闘開始以前に「民心」がすでに解放軍に集まっている状況が新聞報道をつうじてよくわかった。ただ、われわれにはそれを道理と暴力の弁証法として理解する力がなかった。国内に居たものもそうであろうが、中国から帰還した兵士たちはもちろんのこと、居留民たちも、軍事に従属した日本の政治しか知らないものが、新しい中国に生まれている「軍事を自己に従属させる政治」に触れて何を感得したであろうか。

 三〇年代の末に、中国各戦線の指揮官たちがもはや軍事的成功の展望をもてなくなったとき、満鉄調査部が、おそらく支那派遣軍総司令部の内面的示唆に応じて、「支那抗戦力調査」として中国の抗戦能力を分析したことを想起したい。その結論は、日本と中国の関係問題はもはや軍事的には解決の可能性はなく、政治的に打開する外はないということである。新しく政治的外交的に中国と交渉を開始するには、当然の前提として、日本軍部隊をすべて中国から引きあげることが含意されていた。言いかえればこれまでの軍略を新しい政略に従属させることがその前提であった。

軍内部にはこの選択を期待する状況があったにもかかわらず、どのような機微の逆転によるかまったく不明であるが、東條英機らの強硬派の主動によって満鉄調査部関係者の大量検挙のような奇襲によって、軍略が政略を圧倒した。しかし、十五年戦争における軍部は、日露戦争時代とちがい統帥権の独立の建前から政治を軍事に完全に従属させていたのであって、このことは『統帥綱領』(一九四七年復原版)の解説が、国家戦略不在のせいぜい野戦軍レベルの戦術の硬直した形式化にとどまり、クラウゼヴィッツが戒めた「依法主義」(Methodismus)に囚われていたのである。
その結果、わが陸軍が養成した将帥は、せいぜい方面軍の指揮官にすぎず、国家の運命を左右する国軍の指揮官は生れる由もなかった。(クラウゼヴィッツ生誕二百周年記念論文集『戦争なき自由とは』五二五頁)。軍事思想の根幹がそうであったから、「調査」を局面転換の一手段として利用することは結局失敗したのであろう。

いしどう・きよとも 一九〇四年、石川県生まれ。二七年東京帝国大学文学部卒。在学中東大新人会に入り、日本共産党に入党し、二八年治安維持法で検挙。三三年転向し三八年まで日本評論社に勤め、三八年満鉄調査部に入社して大連に渡り、大連図書舘などに勤務。四三年満鉄調査部事件第二次検挙で逮捕、四五年懲罰応召、敗戦を関東軍二等兵としてハルピンで迎え、大連に戻った後、四九年まで労働組合で働く。帰国後日本共産党に入り、六〇年頃離党。七七年には荒畑寒村らと運動史研究会を結成し、『運動史研究』(全一七巻)を刊行。グラムシ研究会を創立、グラムシ思想の普及に努める。おびただしい訳書以外の著作に『わが異端の昭和史』(正・続)『異端の視点』『中野重治と社会主義』『大連の日本人引揚の記録』等がある。
(引用終わり)

田中進二郎です。前回「戦略なき戦争に突っ込んでいった日本軍部」と私は批判しました。上の石堂さんの文章にも納得するところが大ですが、「方面軍の指揮官程度しかいなかった」、という指摘については、うーん、どうなんだろう?あとクラウゼヴィッツの「依法主義」という言葉もよくわかりません。

副島先生の「時代を見通す力」には次のような記述があります。
(p294より引用開始)
・石原莞爾(いしはら かんじ)の警告「間違ってもアメリカとは戦争するな」
米内光政(よない みつまさ)海軍大将(37年の近衛文麿内閣では海軍大臣)はアメリカとひそかに連動していただろう。右腕だった井上成美(いのうえ しげよし)次官も、その五年先輩の山本五十六(やまもと いそろく)大将も当然ながら常に米内と共同歩調をとっている。彼ら海軍のトップたちは三国軍事同盟に反対し、ロンドンとワシントンの軍縮条約に賛成した「条約派」であり平和主義者だということに評価が戦後できてしまった。
今の今でも日本の戦争史や政治評論界では「アメリカと戦っても勝ち目はないと正論を言っていたのに、陸軍がそれに聞く耳を持たず暴走した」ということになっている。そんなものは真っ赤なウソである。ここで私ははっきり書く。後の東京裁判でA級戦犯として絞首刑にされた軍人たちのなかに海軍は一人も入っていないのである。

関東軍参謀だった「戦争思想の天才」石原莞爾陸軍中将も、日本の満州権益を守るために、彼自身が初期にかなり謀略的なことをした。けれども石原は戦争不拡大派だった。「中国本土には手を出すな」といい続けた。石原はアメリカに対しても冷静だった。綿密で詳細な国力比較した結果から、海軍の米内や山本たちよりずっとはやくからから「絶対に負けるから間違ってもアメリカとは戦争をしちゃいかん」と言っていた。
それもあって左遷され、満州から日本に早々と帰された。東条英機首相と
ぶつかって、満州国の設計者の地位を追われた。49歳で京都師団長となって、このあと退役、昭和十六年(1941年)には予備役に編入だ。石原たち「不拡大派」は主導権争いに敗れたのだ。
(引用おわり)

田中進二郎です。『消えたヤルタ密約緊急電-情報士官・小野寺信(おのでら まこと)の孤独な戦い』岡部 伸 (おかべ のぶる)著  (新潮選書) によると、日中戦争開始後一年半近くたった、1938年12月に日中和平工作が水面下で始まったという。日本軍が中華民国の首都南京を占領した後のことである。
(以下要約・引用します。p120~132)

情報士官の小野寺信は南京におかれた総司令部から、国民党の蒋介石との直接和平の可能性を探るよう命を受ける。陸軍参謀本部は支那課とロシア課で作戦が違っていた。
支那課は南京攻略前から汪兆銘(精衛)の傀儡(かいらい)政権をたてることによって、蒋介石国民党政府を弱体化させて、和平にこぎつけようとしていた。陸軍参謀本部は圧倒的にこの考えが強かった。この作戦は「梅工作」
と呼ばれた。

一方、ロシア課の小野寺はハルビンで情報武官として教育を受けたあと、ポーランドやバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、スウェーデンなどの情報武官と厚い信頼関係を築き、ソ連やナチス・ドイツの軍の動向をつかんでいた。その小野寺は、「傀儡政権は世界史的にみても多くの場合は失敗する。」ということをヨーロッパの民族の興亡を肌で学んでいた。「中国のナショナリズムを考えると、傀儡の汪兆銘政権では、中国の民衆の信頼を得られない。重慶の蒋介石政権に直接和平交渉を開くしかない。」と考えた。

また蒋介石の国民党の背後に、敵対関係にありながら「抗日」で合体を模索する中国共産党がいて、それを操っているのは、世界に共産主義を浸透させようとしていたソ連のコミンテルンであることを見抜いていた。

英米が支持する国民党政府は国共合作を進めていて、日本軍が侵攻を続ける限り泥沼になるだろう。戦争が長期化すれば、利するのは中国共産党であり、ソ連である。そこで小野寺は早急に蒋介石と和平を結ぶことを考えたのであった。

この工作機関は「小野寺機関」と呼ばれ、『魔都』上海の外灘(通称バンド)のクラシック・ホテルに事務所と住居が置かれた。陸軍の総司令部も板垣征四郎陸軍大臣以下、小野寺に期待するところ大だったのである。この機関には、二十人ほど起用されたが、軍人はひとりもおらず、ソ連や中国共産党の事情にくわしい転向者を多かった。また近衛文麿の息子文隆も加わっていた。

小野寺は蒋介石との会談相手を、近衛文麿首相か板垣征四郎陸相のどちらかにすると構想していたようだ。しかし、陸軍参謀本部はそこから小野寺を支援しなくなる。近衛文麿も積極的ではなかったという。そして支那課の汪兆銘傀儡政権工作派が巻き返していき、小野寺機関は解体される。小野寺信は左遷され、近衛文隆は上海で軟禁された。その他の日本人は逮捕され、中国人工作者は処刑の憂き目にあう。

結局、日本の陸軍参謀本部は片方で傀儡政権を樹立し、片方で蒋介石との直接和平を模索するというダブル・スタンダードを行ったのである。これでは交渉相手の信頼は勝ち取れなくて当たり前である。機関を解体され、上海を去ることになった小野寺に対して、蒋介石は部下を通じて、金製のカフスボタンを贈った。それには「和平信義」と彫られていたという。
(要約・引用終わり)

田中進二郎です。ながく引用を繰り返してしまいました。泥沼の日中戦争をなんとか食い止めようという動きがあった、ということは少しは日本人として明るくなれることではないでしょうか。
また今も尖閣問題でゆれる日中関係をどこかで、誰かが立て直そうとがんばっているだろうと思い、そういう人の応援になれば、と思い書きました。
ちなみに私は左翼活動家ではありませんので、その点はどうか誤解されないように。「アジア人同士戦わず」の精神を守ってゆきましょう。
田中進二郎拝