[1214]第3回目投稿(亡き長兄・妹の想い出)

岡 末雄(会員番号6720) 投稿日:2013/02/13 17:05

会員番号6720の岡 末雄です。
本来であれば、第3回目投稿は、「私の基本戦略ー日本人民が日本国民となり、真に自由であることを追求していくために」の序文を掲載しなければならないところですが、プロフィールを書いている間に、聡明にして文筆達者であった兄(昭和9年1月2日生まれ、平成24年7月7日死去、享年78)が唯一遺した随筆「亡き長兄・妹の想い出」の存在に気づき、掲載させて頂くこととしました。
戦中・戦後の困難期を生きた人間の魂の叫び、簡潔にして論旨明快、人の心に染みいる名文だと思います。

亡き長兄・妹の想い出   平成19年4月  岡 聰

 先の大戦が終わって間もなく、短い生涯を閉じた長兄と妹のことを、書き遺しておきたい。
 兄 岡 賢一郎 昭和6年10月12日 福岡市姪浜で生まれる。義太          郎・ヤス長男
 妹 岡 利江  昭和14年10月13日 朝鮮大邱府で生まれる。義太         郎・ヤス長女

1 朝鮮へ
 亡父義太郎は、福岡県庁土木部書記であったが、昭和14年2月、朝鮮総督府へ転任となった。一家6人(長男~四男)は、海を渡って大邱の北龍岡町に落ち着いた。利江はここで生まれた。
 しかし、翌年7月には北朝鮮の興南へ転勤となり、(父は)取りあえず単身で任地へ赴いた。
    *大邱(テークー) 釜山(プーサン)の北方
    *興南(フンナム) 北朝鮮・元山(ウォンサン)の北方
 母子6人家族が大邱に残った理由はよく解らない。おそらく先方の官舎の空きがなかったのであろう。ところが父が居なくなると、今まで住んでいた
宿舎を明け渡す破目になり、小路の奥の日当たりの悪い狭い住まいに追いやられた。
 福岡から異境への転居(母は身ごもっていた)ー利江出産ー父の転任ー劣悪な住まいへの引っ越しー僅か1年5か月の間の著しい環境の激変が、母体ひいては胎児・赤ん坊に重大な影響をもたらしたであろうことは疑いない。
 
2 興南
 母子6人が興南へいつ転居したか記憶がない。太平洋戦争が勃発した昭和
16年12月の厳しい寒さの中、小旗を振り振り行進したのをはっきりと憶えているので、遅くとも16年の初期であったろう。

 ♪勝ったぞ日本 断じて勝ったぞ
  米英今こそ撃滅だ
  太平洋の敵陣兵は・・・・

 官舎は九龍里の海辺にあって、目の前には白い砂浜が広がっていた。弟の俊文(五男)は、ここで生まれた。当地には2年半程滞在していたので、利江は興南で2~3歳を過ごしたことになるが、その挙動には憶えがない。推定であるが、この地で既に「結核性脊髄カリエス」にかかっていたものと想われる。

3 釜山
 昭和18年8月末、父の転勤に伴い釜山府の土城町へ引っ越してきた。利江は4歳になろうとしていたが、歩くことはおろか、立つことさえできない悲しさであった。
 戦況は厳しく昭和20年4月、米軍は遂に沖縄に上陸、本土決戦の掛け声のもと、40歳の父にも招集令状が届いた。出征していく父を見送るのは女子供だけ、男性はほとんど招集されていたのである。

  ♪わが大君に召されたる 命栄えある朝ぼらけ
   讃えて送る1億の  歓呼は高く天をつく
   いざ行け 若者 日本男児

 父を真ん中に兄と自分が両脇から腕を組み、大声で歌いながら釜山駅まで送っていった。
 とにかく食べるものに事欠き、少しでも多くの「おから」を手に入れるため、母と2人で代わる代わる並んで、親子7人の空腹を満たした。米の配給も僅かで「どんぐり」の粉で作った真っ黒なパンを弁当にした。兄は成績も良く、国民学校(小学校)6年では副児童長(ナンバー2)、釜山中学に合格し、教練と学徒動員に明け暮れていた。
 そのうち学校も休校となり、終戦を迎えた。しかしながら終戦のとき日本に最も近い釜山に住んでいたことは実に幸運であった。前任地の興南だったら、無事日本へ帰れたかどうか?

4 引揚げ
 順番がきて、終戦の年の10月下旬、釜山港から旧海軍の海防艦で博多港に引揚げてきた。どう乗り継いできたのか、唐津線の東多久駅に着いた時は、日もとっぷり暮れ、真っ暗闇の田舎道を桐野に向け歩き出した。とりあえず、母の叔母ウメの嫁ぎ先である不動寺家を頼ったのである。すでに8か月の身重の母は、利江を背負い両手に荷物、子供たちも各々荷物を背負って、3キロ夜道をとぼとぼと歩き続けた。
 桐野に着いて感心したのは、闇船で送った布団類がちゃんと届いて居たことである。大和魂の一環をかいま見た一事であった。
 時は麦蒔きの季節、14歳の兄は健気にも連日、馴れない鍬を振っていたが、忽ち身体を壊してしまった。不動寺家は、昔の庄屋の子孫で、当時、馬一・ウメ夫婦、長男の良資、それに西山兄弟の5人家族であり、そこへ食べ盛りの親子7人が飛び込んで来たのだから、いかに大百姓と言えども歓迎される筈がない。更には良資さんの結婚を控えていてこともあり、とても長居できる情況ではなかった。

5 入野村へ
 唐津の西方、入野村の鶴牧炭坑に、母の弟、八久保叔父がおり、世話を受けることになった。残務整理を終え帰国した父を加え親子八人、先方の家族5人と合わせ総勢13人が、余り広くもない社宅に犇めきあった。しかし、叔父のお陰で漸く小学校に通えるようになった。実に半年ぶりの教室であった。
 12月10日、六男恒夫誕生。大戦中からの食糧難、終戦、引揚げ、入野への引っ越しと波乱の時期を切り抜けて来たものの、母子への心身への影響は想像に余りある。
 明けて1月、寝たきりになっていた長兄は、食事も与えられず「母ちゃん、母ちゃん」と連日、叫び続け27日、あえなく息をひき取った。享年14歳。顧みれば、兄は満州事変勃発直後に生まれ、以後、日中戦争、太平洋戦争と戦禍の真っ直中に生き、終戦まもなく夭折してしまった。民主主義や自由の何たるかをも知らず、家族の為にと信じ、鍬を振るって倒れてしまったのである。 合掌。

6 西多久へ
 卯一郎叔父が福岡県山田市の炭坑へ移ることとなった機会に、一家は、西多久に独居していた八久保平太郎叔祖父(母の叔父)宅の世話を受けることとなった。昭和21年2月11日、西多久の藁葺き農家に落ち着いた。以後、60有余年、当地が第二の故郷となる。
 平おんちゃん(愛称)は、子供に恵まれず、小城の江島繁二さんを養子に迎えていたが、繁二さんは陸軍に招集され、ビルマ戦線において戦死された。配偶者の今朝千代さんは、子供3人と共に小城駅前で「江島羊羹」を営んでいた。
 平おんちゃんは典型的な水呑み百姓、三反足らずの田圃と一反ほどの畑を耕作していた。採れた米は自己の食い扶持を残して売却、辛うじて現金収入を得ていた。従って我々8人は高価な米を求めることも出来ず、よもぎ団子や芋・南瓜等で飢えを凌いだ。
 利江は既に6歳に達していたが、相変わらず立つことさえ出来ず、いつも同じ着物を着て、囲炉裏の外の片隅に横臥したままであった。もちろん、小学校には通えない。暇をみては母が読み書きや計算を教えていた。ある日、「予科練の歌」の前奏曲を口ずさんでやったら、「そんな曲が大好きや」と目を輝かしていた。貧窮のわが家にはラジオさえなかったのである。

  ♪若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨
   ぐんと育てば荒海越えて  行くぞ敵陣殴り込み
       *当時は軍歌しか知らなかった。

7 終曲
 この世に生を亨けて7年余、立つこと歩くことさえ出来なかった利江も、輝いた一瞬があった。ある日突然、立って歩けるようになったのである。これぞ、余りにも哀れな妹のために神が力を与え給うたとしか考えようがない。家の前の坪(中庭)を、実に楽しそうに溌剌と走り回っている姿が忘れられない。本人はもちろん、母にとってもこんなに嬉しいことはなかったであろう。
 しかし、その僥倖も3月とは続かなかった。前の小さな池に落ちて水をしたたか飲み、肺炎を患い昭和22年6月16日、天に召された。
 戦時の最も厳しい時期に粗食に耐え、横臥の運命に耐え忍んだ余りにも過酷な短すぎる生涯・・・一体何のために生まれてきたのであろうか?唯ただ冥福を祈るのみである。 合掌

 兄も妹も戦争中の真っ直中に生き、その短い一生を終えた。
それでも、兄はまだ好運だった。小学校を卒業し中学校にも通えた故。妹は余りにも酷すぎた。学校も全く知らず、友だちもできず、やっと歩けるようになった時、もう死が待っていたのだから。
 60年以上たった今でも、幸薄かった兄妹のこと、そして硫黄島や沖縄戦線で亡くなった人々、特別攻撃隊で散っていった20歳(はたち)そこそこの若者達、更には特攻戦艦大和等々、時折偲んではいたたまれない気持ちに襲われるが、最近、「千の風になって」の詩を口ずさむと、気分がすっと晴れるようになった。

   ♪千の風になって  作詞 不詳 訳詞・作曲  新井 満

  私のお墓の前で 泣かないでください。
  そこに私はいません 眠ってなんかいません

        (中略)

  千の風に 千の風になって 
  あの大きな空を 吹きわたっています
                              完

  追悼文(岡 末雄)

 動乱の朝鮮・北朝鮮そして終戦による引揚げ、西多久への定住、その間、耐え難い程の軽蔑・差別・侮辱を受けたと聴いています。 それをおくびにも出さなかった聰兄よ、偉い!
 極貧と飢餓を耐え抜き、2人の愛し子を失いつつも、死を選ぶことなく、家族の為に生き抜いた母よ! 魂の永遠の安息がありますように。
 青春を知ることなく14歳・7歳の幼さで生を終えた、相まみえることのなかった賢一郎兄・利江姉よ! 魂の永遠の安息がありますように。
 長兄・妹を早くに失い、6人兄弟の長として艱難辛苦を舐め、最後まで兄弟を助け、その行く末を案じた聰兄よ! 魂の永遠の安息がありますように。
 今、私がこうして安穏と生きておれるのは、あなた方のお陰です。

 平成25年2月13日 まどろみの後、昼食から夕刻にかけて
  岡 末雄(陶岡白雲)拝