[1190]リバータリア二ズムと個人備蓄(自立の思想)

田中進二郎 投稿日:2013/01/21 01:36

最初に、前回の「重たい掲示板」の投稿(1185)で、とんでもないミスをしてしまいました。副島先生の最新刊 ○『個人備蓄の時代』(自衛自活の‘‘要塞”を築け! 光文社刊)を ×『個人資産防衛の時代』と書いてしまいました。お詫びして訂正します。引用には今後細心の注意を払う所存です。

リバータリアニズムと自立の思想の関連について、次のように副島先生が述べられている。
(『個人備蓄の時代』p142より引用開始)

●原発事故後、避難所を早く出た人たちがいた。自立の思想こそが「個人備蓄」の基本となる
大災害が起きたとき大事なことは、なるべく避難所に長居しないということだ。私は福島の原発事故直後、福島にただちに入って地元の住民たちの態度を見てきた。たくさんの人と話をした。原発20キロ圏の外側をずっと移動した。津波に遭った人たちだけがはじめは避難所にいた。その後、原発の爆発があって、ひとびとは血相を変えて避難した。原発から50キロの郡山市や70キロの福島市の大きな体育館が避難所だった。「いやだ。あんなところには長くいたくない」とさっさと自宅に帰ってきた人々がいた。2週間ぐらい経つと、「避難所なんてのはあれは収容所だ」とハッキリ言った人がいた。この人たちは商店経営者か自営業者たちだった。

彼らは炊き出しの雑炊を食べるために並んで、タダで食べ物や毛布をもらって、避難所の体育館の冷たい床の上にいる、ということに耐えられない人たちだった。だから不便を覚悟で自分の家に戻って行った。
(中略 以下144ページから引用続き)
この人たちのしっかりとした精神が、個人備蓄の基本だ。
行政というか国や役所は、災害が起きたら住民をどこかにまとめて面倒をみようとする。そこには緊急用の水があって寝る場所がある。しかし、それをできることなら拒絶するという考え方も大事なのである。自力で災害から立ち直るという考えが重要なのだ。

避難所では、人間の自由が奪われる。人間の尊厳が奪われる。独立心が奪われる。避難所とは難民キャンプ(左は太字)なのである。災害が起きたら最初に行って、最低限の食料をもらうのはいいけれど、その後はすぐに、自分の力で復旧するべきだ。だから災害に備えて個人で備蓄するという発想になる。

自分のことは自分でやる。この言葉を日本人は知っている。けれども、実際には異常な事態がやってくると何もできなくなる。すっかりあわててしまう。あるいは呆然として何もできなくなる。それでも自分のことは自分でやらなくてはいけない。ほかの人のことなど災害時にはかまっていられない、というのが真実である。
(引用終わり)

田中進二郎です。私もあの3/11の震災のときはパニックでした。広瀬隆氏の『原発時限爆弾』などを読んで、余計に放射能恐怖症をあおられたりしていました。被災していない私のような人間ですらこうであるのだから、津波・原発のダブルパンチを受けた福島の人たちが、絶望感に打ちひしがれるのも無理はない。だが、だが、である。副島先生の眼には原発20キロ圏外の地域にも、自力で立ち直ろうとするひとびとが映っていたのである。

少し角度を変えてみると、引用した副島先生の文章は、『これから正義の話をしよう』のマイケル・サンデルの共同体優先主義(コミュニタリア二ズム)と正反対である。
震災後、サンデルはNHKの討論番組で『日本が東日本大震災でも秩序が乱れず、冷静に行動していることは、世界の賞賛の的となっている。』として、福島第一原発内で決死の電源回復に挑むフクシマ・フィフティとともに、「日本人の勇気と知恵の証だ。」という趣旨のことを言っていた。また、それを聞いて芸能人(日本人)なんかが「日本を誇りに思わなきゃね。」みたいなことを言って、『絆(きずな)が大事』という結論に持っていった。

「ほかの人に災害時にはかまっていられない、というのが真実である。」副島先生の言葉がリバータリアニズムの本領なのだろう。しかし、これもまたとても苦い良薬である。
われわれ日本人の多くが公立の義務教育(小・中学校)で受けてきたのは、徹底した集団行動のルールだからだ。それ以外の行動原理を指導しうる教育者はすでに公教育では消滅している。<戦前は下村湖人(しもむらこじん)の「次郎物語」にでてくる朝倉先生のような「徳」のある人間がもっといただろう。>

だからこそ、橋下徹(はしもと とおる)の日教組批判も俗耳にはよく響くのであり、大阪の庶民は「なんかええこといってるなあ」と支持するのである。

また読解力のない読者であれば、副島先生の言葉を次のように曲解し、非難するだろう。「被災者に『自己責任をとれ』という考え方は先生のこれまで言っていることと矛盾している。」と。
(実際アルルの男・ヒロシさんの新しいサイトを見ていたら、『個人備蓄の時代』を読んだ読者で上に似たようなことを書いて抗議している人がいました。これに対して、アルルさんは、そうじゃないよ「江戸時代の庄屋の生き方をのべておられるのですよ」と諭されていました。確かに、1400円払ってこの本を買って、そんな理解しかできないとは…あわれだ。「自立の思想」もなかなか生易しくはないのだ。)

●自立の思想と新自由主義者の「自己責任」の違いについて
さて副島先生は「マイケル・サンデルと討論できるのは俺だけだ、どうして俺を呼ばないのだ!」と吼えて(ほえて)おられます。
マイケル・サンデルの「これから『正義』の話をしよう」(ハヤカワ・ノンフィクション)
の帯うらに宮台真司氏(みやだい しんじ)の推薦文がついている。以下引用します。

(引用開始)
1人殺すか5人殺すかを選ぶしかない状況に置かれた際、1人殺すのを選ぶことを正当化する立場が功利主義だ。これで話が済めば万事合理性(計算可能性)の内にあると見える。ところがどっこい、多くの人はそんな選択は許されないと現に感じる。なぜか。人が社会に埋め込まれた存在だからだ――サンデルの論理である。

彼によれば米国政治思想は「ジェファソニズム=共同体的自己決定主義=共和主義」と「ハミルトニズム=自己決定主義=自由主義」を振幅する。誤解されやすいが、米国リバタリアニズムは自由主義でなく共和主義の伝統に属する。分かりにくい理由は、共同体の空洞化ゆえに、共同体的自己決定を選ぶか否かが、自己決定に委ねられざるを得なくなっているからだ。

正義は自由主義の文脈で理解されがちだが、共和主義の文脈で理解し直さねばならない。理解のし直しには、たとえパターナル(上から目線)であれ、共同体回復に向かう方策が必要になる――それがコミュニタリアンたるサンデルの立場である。 –宮台真司氏(上書オビ裏より)
(引用おわり)

上の推薦文の特に最後の段落が、わたしはおかしいと思います。
ジョン・ロックの『市民政府二論』(加藤節 訳 岩波文庫)の第一部で、王権神授説を唱える、イギリス国王の御用学者に対して、ロックはイギリス国教会のパターナリズム(父権主義 国王(国教会の長でもある)は旧約聖書のノアの末裔であるから、子たる臣民は従順たらねばならない、という考え)を批判した。この書がアメリカ憲法の抵抗権に影響をあたえたことは、誰でも知っている。

『個人備蓄の時代』でも次のように述べられている。P152より引用する。
(引用開始)

アメリカ憲法は、圧政に対して国民が銃を取って立ち上がり、国家に抵抗する権利を認めている。これをミリシア(民兵)の思想という。ミリシアのことを北部ではミニットマンという。アメリカ独立戦争のころ、イギリス国王の軍隊の襲撃に対して、一分間で集まる独立軍の義勇兵という意味で「武装民兵」である。

このアメリカの武装民兵の思想からリバータリアニズムはできている。だから、軍隊を否定しない。最小限度の国家の役割を主張する。
(中略)
このリバータリアンの考えは、トーマス・ジェファーソンというアメリカで第3代大統領になった人の思想である。行政権や役人たちの権利を徹底的に制限するために国家があるのだ。
(引用おわり)
以上です。
田中進二郎拝