[1184]やまと魂

福田 博之 投稿日:2013/01/14 13:23

「敷島の大和心を人問はば  朝日に匂ふ山桜花」 本居宣長

山にかこまれた、ちいさな土地にすむ「倭(わ)」の民族は、
どのような心、魂をもって、生きていくのだろう。
自然に対して、畏敬の念を抱き、
やおよろずのカミという自然信仰が生まれた。
自然に対しての観察は、「もののあはれ」という情緒をはぐくんだ。
自然への尊敬や、人口密度が高い生活環境は、
人々に「つつしみ」という行動傾向をもたらした。
自然信仰は、仏教の伝来とともに姿を変える。
自然崇拝は、「山門(さんもん)」を通り、
「縁起(paTicca-samuppaada)」という思想に、感情を与える。

「大和魂」 大きく和する精神。 おおいなるやはらぎのこころ。

民族固有価値の「やまと魂」は、世界不変価値となりうるのだろうか。
私は、日本で、議会制民主主義が根付かない要因は、
「和」”harmony”ではなく、「睦」”friendly”だと考える。
私は立憲君主制としての天皇の存在を否定しない。
権力の暴走を防ぐ装置として、庶民も市民として政治に参加する、
世界不変価値である議会制民主政体との共存が必要だと考える。

「十七条憲法」 一曰(いちにいわく)。
「和を以て貴しとなす」(Harmony is to be valued)。

「和」は”harmony”という単語だけでは理解が不十分となる。
「和(やわらぐ)を以て貴しとなす」とする解釈を私は支持する。

ここでの「やわらぎ」とは何かを理解する為には、
「以和為貴」和(やわらぐ)を以(も)って貴(とうと)しとなす、よりも、
「然上和下睦」上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて)と、
それに続く、「諧於論事」事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、の解釈こそが重要だ。

ここの解釈をあいまいにしたままでは、
日本民族島国精神の「やまと魂」は前にすすめない。
「和」は、支配者側から被支配者側への抑圧、「口封じ」の論理なのだろうか。

「上和下睦」上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて。

党派や議論が「和らぐ」のは、「上」であり、
「下」は「睦ぶ」ものだとしている。
「下」は仲良くするように書かれている。
「睦ぶ」は、”to be harmonious”, ”to be friendly” などと訳される。
「和」と「睦」が、同じ”harmony”の意味だとは思わない。

十七条憲法は、庶民にむけて書かれたものでは無い。
政治的な議論は庶民のものではなく、支配者層だけのものである事が前提の文章である。
ここでいう「下」は支配者層のなかでの「下」であり、庶民では無い。
現代でいう「庶民」は、十七条憲法では「百姓」と表記されている。
十七条憲法の筆者が当時に、民主主義の発展を未来予測して、
「庶民は政治的論争をするな」、と書いたものでもない。

書かれた当時の、政治階級の「存在」だけで、
「和」の解釈自体を、「口封じ」の論理とする事はできない。

「和」と「睦」の違いを明確にすることにより、
「やまと魂」について、「おおいなるやわらぎのこころ」として、理解が深まる。

日本が現代になっても、庶民が市民として成長できず、
民主主義が発展しないのは、「和」ではなく「睦」のほうが原因だと、私は指摘する。
「睦」を当時の支配者の下層へではなく、現代の庶民へあてはめて考えてみる。
仲良くする事自体は良い事でも、それが「つつしみ」などの行動傾向との相乗効果により、
庶民の生活環境では、政治的議論は非積極的なものとなる。
「議論」により相互理解を深めるという、「対立」の正当な役割が果たされなくなる。
相手を打ち負かす可能性がある「議論」は、恨みをかわない為に避けられる。
仲良くする秘訣は、お互いが「快」である事。欲求を満たす事だと、庶民は熟知している。
楽しい事、儲かる事、健康に関する事などで、話題は埋められる。
庶民の興味は他に分散する。
親しみやすいタレント議員、強い英雄像、表面的に見て儲けさせてくれそうな政党。
アイドルへの人気投票のような、投票行動は、手間がかからない「快」ともなりうる。

「和」には論理的思考が要求される。
「睦」は感情的好き嫌いや「快」に支配される。

続く、「諧於論事」事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは。
ここでもharmonyに類似する概念の単語がつかわれている。
「諧(かな)う」調和する。一致する。

「議論」が「調和」(to be harmonious)する、という言い方に、私は違和感を覚える。
「議論が「一致」(to be concord)する」、と英訳される。
“to discuss affairs in cooperation”「協調の気持ちで(協力して)議論するなら」
というように、議論の結果、結論ではなく、
議論の過程のあり方、心構え、として解釈するかたもいる。
議論の「重要性」については「十七曰」でも強調されている。

結論の一致「調和」は「幻想」だとする考えかたに、私は同意する。
実際には、立場が違えば主張も異なり、「結論の一致」は理想論だからだ。
ただ、政治的な議論が活発になされた結果として、
採用する政策などが「妥協」により極端なものにならなくなる事は、現実論である。

ここでの、「調和」は、
「妥協の結果としての、全員の合意(consensus)」と解釈されるべきだ。
「全会一致」は、「根回し」、「空気(ニューマ)による支配」などで、おこりえる現象だ。
そういった意味で、あらかじめ合意形成がなされた後での、
議論の場での、形式的な結論の一致、という解釈も理解できる。

忤(さから)うこと無きを推奨しているからといって、議論を否定しているわけはない。
全員の合意を尊重する事を、主張しているだけだ。

以上を踏まえての、「十七条憲法 一曰」の私の解釈は下記だ。

やわらいだ状態は、すばらしい。
反逆をしない事は大切だ。

人は皆それぞれの考えがあり、(似た考えがまとまり)党となる。
各党派とも、世の中の事を良く知っている者は少ない。
(それだと、考えが違うと言って)、天皇や父親に従わない、
お隣の集団と反目するという事になる。

統治者のうち上のものは、全員の合意を形成し、
統治者のうち下のものは、みんなで仲良くしよう。

世の中の事を議論して、
(賛成意見、反対意見を出し合い、理解を深め、)
(妥協により全員の合意に至り、)
(形式主義として全員一致で)総意とされたら、
その結論は筋が通っているので、
(みんなが受け入れやすいものとなっているので、)
(その深い理解に基づき到達した共通認識をもって、)
何事でも成し遂げられるだろう。

「和」の精神は、
「極端を避ける、中道、中庸」の精神を内包している。
「和」の精神は、
「対立を経て、議論により、対立を乗り越えた、深い相互理解に努める事」を前提としている。
「和」の精神は、誠に、民主的な精神である。
安定した平和的な世の中にするためにも、
「和」の精神は「貴い」もので、上記において、世界不変価値となりうると私は考える。
庶民の「睦」”friendly”のありかたとしての「風土」による弊害をどう改善するのか、
論理的思考方法の普及、
討論に慣れ親しむ事(教育の場での訓練)と、
討論の礼(人格と議論の切り離しなど)の認知。
どのようにしたら、分断された情報が、ひろく庶民に浸透できるのか、
そうした事が、日本での議会制民主主義の発展の課題だと考える。

参考文献
『決然たる政治学への道』副島隆彦
『時代を見通す力』副島隆彦
『人間を幸福にしない日本というシステム』カレルヴァンウォルフレン
他。