[1131]11月3日の定例会に行って・新プラトニズム

田中進二郎 投稿日:2012/11/29 10:48

11月3日の定例会(『隠されたヨーロッパの血の歴史』出版記念講演会)に参加して
投稿者 田中 進二郎
 
こんにちは。講演会が終わった直後に、「衆議院解散」のニュースがあり、それから、副島先生やアルルの男中田さんや、古村さんの政治情勢解説を読んでいると、「情況」が逼迫しているの感を強く受けています。(「情況」とは戦時の用語である、と昔、ある教師に教わったことがある。)
しかし一般の国民は、どれだけ国税に自分たちの給料がむしりとられても、怒りを表に出すことをしないし、まったく突然の「衆議院解散」(バンザイ突撃解散、と私は名づけています)が、不可解だということすらも、大多数の国民は感じてないのではないだろうか。
 少し立ち止まり、なぜ「民主党にまったく勝ち目のない今、衆議院解散を野田首相が『決意』したのか」という一点でもまじめに考えることができれば、自分なりの答えを導きだすことくらいはできるであろうものを。

毎日のように「自民党、民主党に続く第三極、第四極の結集」というメディアの報道ばかりを聞かされていると考える神経が麻痺させられていくのだろう。「誰でも、メディアで3分間は主役になることができる」という言葉を、確かアンディ・ウォーホルが言っていたと思うが、これからあと何人もそういう国会議員や地方自治体の首長が登場してくるだろう。そして「小党乱立の戦国時代選挙」みたいなことをニュースやワイドショーは言い続けるだろう。それが第4権力=マスメディアの手法であるから。
そして選挙が終われば、やはり↓の副島先生のいう「大政翼賛会」が出来上がっているのだろうか?

今月初めの講演会でも、そういう焦慮(しょうりょ)のようなものが会場の空気を支配していて、「イタリア・ルネサンス」という高尚な話題よりも、「先生!で、ところで一体尖閣問題はどうなっていくんですか?」という現実問題の方に関心を持たれている方が多かったのではないだろうか。その両方を天秤で量りながら、先生は講演を進めていかれた。

新プラトニズム。「ルネサンスというのは、フィレンチェで始まった、1439年にフィレンチェで公会議が開かれた年から始まり、直後に勉強会となり、1459年からは正式な研究所となっていった新プラトン・アカデミーという激しい思想運動のことなのである。」(「隠されたヨーロッパの歴史」p66より引用)

これを「プラトン哲学(著作群)」と考えてしまうと、われわれ日本人にとってはなじみの薄いものに感じられるだろう。実は私田中も「ソクラテスの弁明」以外のプラトンの著作(岩波文庫にずらっとならんでいる。)はあまり興味をもって読むことができない。あれらの対話(dialogue)を頭の中で再現して楽しんだり、考えたりすることは精神貴族ではない私には無理である。では新プラトン・アカデミーという思想運動はやはりわれわれ500年後に生きているわれわれ日本人に縁遠いものなのか・・・?

(以下「隠されたヨーロッパの歴史」より引用、要約p99-110)           
1439年にゲミストス・プレトン(1360-1452)がビザンチン帝国のコンスタンチノープル
からフィレンチェにやってきて、コシモ・イル・ヴェッキオ(1389-1464)にプラトンのアカデメイアの再興を説いた。老コジモたちフィレンチェ人にプレトンの講義は衝撃を与えた。プレトンは、プラトンの信奉者だから、アリストテレスの中にある金儲け肯定の思想(平衡)と現実主義(リアリズム)を徹底的に嫌っただろう。「イデア」なることばで表す理想主義であるところのプラトン主義を徹底的に主張した。だから彼は「第二のプラトン」といわれた。ここで痛烈に批判したのはカトリック神学(アリストテレスの思想で作り直された)であった。これはフィレンチェの文人たちに、キリスト教に対する懐疑精神を植えつけた。

プレトンは自分の使命が終わったことを感じて故郷に帰るが、その後もフィレンチェにとどまってそこで死んだ人間としてヨハンネス・ベッサリオン(1403-1473)
というギリシャ人がいる。彼はアリストテレスの『形而上学』(メタフィジカ)やクセノフォン『メモラビア』という古典をラテン語に翻訳した。プラトン思想と水と油のはずのアリストテレスの思想を、ベッサリオンは無理やり合一させて上手に解釈した人のようだ。プラトンは人間の愛と情感を優先する。だが、プラトン主義の愛の賛美だけでなく、現実主義(実利主義)のアリストテレス主義の立場にもたたなければならないと説いたらしいので温和な人物だったのだろう。
(引用おわり)

田中です。クセノフォンの『メモラビア』は「ソクラテスの思い出」という題の邦訳がある。(プラトンの『ソクラテスの弁明』と好対照のソクラテス像が描かれている。)
クセノフォン(紀元前427?-355?)はソクラテスの弟子であるとともに、軍人でもあり、ペルシャから撤退する、ギリシャ傭兵部隊数千人のリーダーとして決死の行軍で、ギリシャ帰国に成功した。それを文章に書いて『アナバシス』という記録文学になっている。
山岳地帯を越えて黒海を見渡す地点に到達するところで「タラッタ、タラッタ!」(海だ海だ)と兵士たちが叫ぶシーンがクライマックスである。
帰国はしたものの、スパルタに軍が投降したことと、ペロポネソス戦争が始まったことで故郷のアテネには帰れずじまいであった。が、スパルタで軍人として厚遇され、荘園管理をして、奴隷を適切に使役する術などの本も書いたらしい。処世の術にも長けていたのだ。最後は悠々自適の生活の中で、著作をものする晩年をおくったようである。クセノフォンについては、アレクサンダー大王も彼を読んで戦術を研究したらしい。
ベッサリオンもまたスレイマン1世により、コンスタンチノープルが陥落し、(1453年)帰国できずにフィレンチェに骨を埋めることになった。クセノフォンと境遇がよく似ている、と思う。

話が突然変わるが、ジャック・アタリ(フランスの現代思想家)の『1492 西洋文明の世界支配』(ちくま学芸文庫)という本では、1492年を境に西欧が近代化への道を突き進んでいく、その要素として、近代知識人の誕生、ナショナリズムの芽生え、市民階級の誕生などから考察している。特にイスラム教徒のイベリア半島(スペイン、ポルトガル)からの追放(レコンキスタ運動)、とユダヤ教徒(マラーノ)の迫害の西欧の歴史における意味に深く切り込んでいる。
1492年とはスペインの宮廷では異端審問長官にトルケマダが就任し、ユダヤ人追放の計画書をイザベラ女王に提出する年であるが、同時にルネサンスの思想運動が弾圧され、押しつぶされていく始まりの年でもある。ロレンツォ・イル・マニフィコが死ぬのである。(4月8日)

アタリ氏のルネサンスの定義も副島先生と近い。
(『1492』p73より引用開始)
ペトラルカとボッカチオに続いて、新しい思想の鍵となるコンセプトを創出した人たち=
フィチーノ、ルイジ・ブルチ、ポリツィアーノ、ピーコ・デラ・ミランドラはフィレンチェで、教会のおきては、少なくとも表面的には尊重するにしても、自由な知識に魅力を感じ、教会の哲学とは無関係な独自の哲学を作りあげることに関心を持った寛大な庇護者を見出す。(コジモとロレンツォ)

だからすべてはフィレンチェで、まさに1462年に始まる。コジモは、プラトンの全著作をラテン語に翻訳する事業に出資することに決める。(中略)
コジモはこの翻訳の仕事を、彼の侍医の息子でギリシャの作品の翻訳家としてすでに名をはせていたフィチーノにゆだねる。30年の間、あらゆる新思想はこの人物の思想と著作を中心に展開し、彼は大変な名声を博することになる。今日、彼は不当にも忘れられているけれども。

フィチーノは、たちまち単なる翻訳者の役割をはみ出してしまう。彼はプラトニズムとキリスト教の哲学的な総合をもくろむ。翻訳から解釈へ、解釈から教説へと移行し、必ずしも自分自身のものと自分が注釈する思想家から借用したものとを区別することはしない。(中略)彼はまずプラトンの『対話編』を翻訳したあと、その注釈のの中で、プラトンが神や魂や宇宙の美について語るとき、まるでキリスト教徒のように自分の考えを表現していることを明らかにしようとする。さらに彼はその先までいく。人間の魂は神の反映であり、魂は直観と瞑想と美によって神に結びつきたいと願う、と彼はいうのだ。そこで彼は『芸術だけが世界の音楽的調和を説明する、美は言葉に訴えるよりも容易に、激しく、愛を生じさせる』と書くのだ。
(中略)
師よりも大胆な若きピーコ・デラ・ミランデラは、プラトンの中にもはやキリスト教の隠れた原理ではなく、まさに学問と自由と責任の原理を見ている。人間は世界の中心にいる、と彼はいう。神は人間に次のように言われた、と彼は考える。

神「私はお前を世界の中心においたが、それはお前が世界をより用意に見つめ、世界の中に存在するあらゆるものを見られるようにするためである。私はお前を天上的なものとしても、地上的なものとしても、死すべきものとしても、不死なるものとしても作らなかったが、それはお前がもっぱらお前自身の導き手と主人になれるように、またお前がおまえ自身に固有の形を与えられるようにするためである。」

だから人間には世界を理解する権利と義務がある。人間は知ることによって神のごとき存在になるのだ。カバラについて思いをめぐらしつつ、ピーコは『人間の尊厳について』の中で、人間は自分の運命を自由にできる創造者、世界の主人ともなりうる存在だと述べ、フィチーノのように人間を神の意思の道具とは考えない。
ピーコは「力は知識から生じる」と言った。情報の価値を知り、印刷術の価値を発見した商人たちの誰もがこの革命的な主張に賛同した。
(『1492』からの引用終わり)
新プラトニズムの流れをまとめる形になってしまいました。結果として引用が多くなり、申しわけありません。

最後に。定例会の前座の松尾雄治さんのHFT(High frequency Trade 高頻度取引)の危険性についての話も噛んで含めるような話し方だったので、じっくり考えながらきくことができた。ちょうどいいウォーミング・アップになった。テレビの経済アナリストたちの単なるおしゃべりと違って、一ヶ月たった今でも、どんな話だったか組み立てが思い出せる。
重要な話はあわててしゃべらないことがコツなんですね。勉強になりました。

田中進二郎拝