[1128]神のキリストの教えと悪のキリスト教

宍戸 勝 投稿日:2012/11/21 00:05

初めて投稿いたします。
会員番号3252番の宍戸 勝(シシド マサル)と申します。
投資、占い(九星気学、古代中国の二十八宿、カバラなど)、宗教哲学に興味があります。

今回の投稿の内容ですが、何故、キリストの死後、キリストの教が反キリスト、ユダヤ教に変質してしまったのか、少し、聖書を引用しながら考えて見たいと思います。

「隠されたヨーロッパ血の歴史」の中で副島先生が書かれた通り、キリスト教の
原罪思想は全くの間違いであり、イエス・キリストは、当時のユダヤ人の堕落した信仰を正すために新たな神の教えを説いていたのであります。
モーゼ亡き後のユダヤ教の戒律を守る者も少なくなり、唯でさえ、ユダヤ教では
「人間は、人類の祖アダムとイブが蛇に化けたサタンによって神を叛き、知恵の木の実を食べて楽園を追放された罪深いものだ」このような教えが「罪の子」「原罪を背負っている」と考えるのがユダヤ人の信仰でした。
それに対して、イエスは「自分は神の子である」とか、「人間と神は同体」とか、このようなイエスの教えは、ユダヤ教に反しているし、自分だけでなく、人間全部を神の子だと称するは、神を汚すものだと考えられていたのです。

「その中の一人にて、この年の大祭司なるカヤパ言う『汝ら何をも知らず。ひとりの人、民の為死にて、国人すべての滅びぬは、汝らの益なるを思わぬなり』
これは己より言えるに非ず、この年の大祭司なれば、イエスの国人の為、また、
ただに国人の為のみならず、散りたる神の子らを一つに集めん為に死に給うこと
を予言したるなり。」
                    (ヨハネ伝福音書-第十一章)

この新約聖書のヨハネ伝福音書の一説に「散りたる神の子らを一つに集めんが為に」と書かれておりますように、真のキリスト教では、イエス一人が神の子ではないと、ですから「神の子ら」と確かに複数を以って書かれているのです。
しかるに、大祭司は半ば神懸りとなって、イエスが全人類の罪の身代わりになって十字架にかかることは「ただに国人(ユダヤ人たち)の為になるばかりではなく、「散りたる神の子らを集めるために」必要だという意味を発言したのです。
「散りたる神の子ら」とは人間はすべて「神の子」なる神霊が宿り人間自身の命
となっている。
その人間自身の実相(ほんとうのすがた)がすでに忘れられてしまって離散したのと同じ意味です。その離散しているところの人間生命の本性(ほんせい)たる
「神の子」をすべての人々に自覚せしめるということが、「散りたる神の子を一つに集める」というこであります。
「一つに集める」とは、「神の子」と「人間」を一体にならしめる。
イエスだけではなく、本来、「神と人間は同体である」と人間の本質
を説かれたのでした。

また、イエスは多くの人々は悟りが低く、魂が幼いため、その差別知によって様々な悪しき思い、罪を犯す者に対し「まいた種は刈り取らなくてはならない」
とも説かれ、悟りは個人差があり、しかし、本来「神の子」であるとユダヤ人達
を諭されました。

パウロはイエス・キリストの死後、イエスの声を聞き偉大なキリスト教の伝道者となりましたが、結果としてイエスの教えを捻じ曲げてしまい、あれだけの奇跡を体験しても、パウロの心の闇はしだいにイエスの声を消し去り、サタンの手先
となり、地位欲、権勢欲が強くなりユダ以上にイエスを裏切ってしまいました。
その後、キリストの教えという仮面を被った反キリスト、ユダヤ教が世界に広がり悪の原罪思想となって、人類を苦しめる不幸の歴史が始まったのです。

宍戸 勝 拝