[1114]羽仁五郎著「ミケランジェロ」を読む(2)

田中進二郎 投稿日:2012/10/22 05:16

羽仁五郎著『ミケランジェロ』を読む(2)田中進二郎
羽仁五郎氏についての簡単なプロフィールがありましたので、おそくなりましたが紹介します。「日本の名著」(中公新書)p202より引用します。

(引用開始)
羽仁五郎 『東洋における資本主義の形成』

はに ごろう 1901年、森宗作の子として群馬県桐生に生まれる。1918年、一高に入って
村山知義らと交わる。21年、東大法学部に入学、まもなく中退。同年ヨーロッパに行き、翌年からハイデルベルグ大学でリッケルトに師事して歴史哲学を学び、マックス=ウェーバー家に下宿し、遊学中に大内兵衛(おおうち ひょうえ)、三木清(みき きよし)らと交友する。このころからマルクス主義に傾倒し、24年帰国、東大国史科に入学。29年日大教授となり、旺盛な執筆活動を始め、32年から『日本資本主義発達史講座』の編集・執筆に参加して、近代日本の構造とその特殊性を分析、批判した。(野呂栄太郎、平野義太郎、山田盛太郎らとともに「講座派」のひとり)『史学雑誌』に「東洋における資本主義の形成」を発表した翌33年治安維持法で検挙される。44年、中国に行き、北京で再び逮捕される。敗戦は獄中で迎えた。戦後、日教組の組織化、国会図書館の創設にも力を振るった。49年、参議院議員に当選する。著書に『明治維新』『明治維新史研究』『白石・諭吉』『都市』など
1983年死去。
(引用おわり)
(以下ウィキぺディアよりしらべたことを加筆します)
68年『都市の論理』はベストセラーとなり、新左翼運動の革命理論家的存在となった。
イタリア史学関連では『ミケランジェロ』のほかに、べネデット・クローチェ著『歴史叙述の理論及び歴史』の訳(1926年 岩波)、『マキャべリ 君主論 その歴史的背景』(1936 岩波)、『クローチェ』(1939 河出書房)『イタリア社会史』(1952年 岩波)がある。

 『東洋における資本主義の形成』の解説(本文 p205)を読みながら、「おや、これは、副島先生の研究の源流なのだろうか。」と思ったところは、次の点です。
講座派の野呂栄太郎の『日本資本主義発達史』や山田盛太郎(やまだ もりたろう)の『日本資本主義分析』という明治維新において「近代社会」が形成された経過、理由、特質の分析がすすめられた。(これはマルクス主義の段階的発展史を日本に適応させる手法だ。)が、歴史学の固有の問題意識からすると、日本の資本主義をアジアや世界の連関からきりはなし、いわば孤立現象として取り扱う方法論は不十分だった。そこに「歴史家」羽仁五郎が登場してきた。(ここからが重要だ。)
「明治維新は、アジアの中の日本が17世紀、18世紀の西洋ではなくて、19世紀後半の欧米資本主義との接触を契機にして行われた変革なのである。」このことを羽仁氏は『東洋における・・』において発表したのである。
この視点は副島先生の明治維新論(大英帝国のグレートゲームの中の明治維新)というのと共通しているのではないかと思った。副島先生がこの秋に出された『ロスチャイルド 200年の栄光と挫折』のような研究を、戦前の『講座派』も羽仁五郎氏を先頭にとりくみはしたが、完成できずに挫折した仕事だったんだ、きっと。
ちがうかな。それは羽仁五郎氏の『明治維新史研究』あたりを調べてみなくてはわかりません。

本題からそれてしまいました。前回の『ミケランジェロ』のダヴィデ像のバーチャル画像はいかがでしたか?サイトの英文の訳がやっぱり間違っていました。訂正します。
サイトの表題の3行目の訳がボロボロでした。
(以下訂正箇所)
アカデミア美術館がダヴィデの顔を正面から見させないのは、ミケランジェロの真意から
観客の目を離しておこうとする、
××(viewed from the traditionalist politically right 伝統主義者の右翼の政治的意図である。)
訂正(viewed from the traditionalist politically incorrect Right
伝統主義的な政治的に正しくない右翼の意図があってのことだ。)

(ここから『ミケランジェロ』を読む 本論です。前置きが長くなりました。)
重要ポイントと思われる箇所を引用します。
(引用開始、一部要約)
・マキャべリの「君主論」はそこに専制主義のありのままの姿を書いたので、「君主論」が
かれの代表作でもなければ、それが彼の自由なる希望の表現でもない。
『リヴィウス論(古代ローマ史論)』は彼の自由なる政治の理想を述べたもので、
『フィレンチェ史』はフィレンチェ自由都市共和国の歴史と意義と現実とを明らかにし、前後に比べられるもののない名著である。
これらにおいて、近代政治学及び近代歴史学の基礎をおいたマキャべリの科学的業績及び
政治に対する彼の本質的希望をはっきりと認めなければならない。(p9)

・中世の封建主義専制の解体は世界的に起こったが、チンクエチェント(1500年代)のイタリアが全欧に先駆けてルネサンスを迎えたのは、もっとも早く、12世紀から大衆的な農奴解放が民衆の手によって行われたためである。
12世紀から14世紀のイタリアの民衆運動トゥキニ(Tuchini tutto がuno になる、つまりすべてがひとつになる。意訳すれば一揆)の農民たちの動向に応じた力によるものであった。(p26)
・一言でいえば、ルネサンスの本質は封建専制に対する民衆の自由独立の実現の希望であった。誤解のないようにいっておくが、それは後のいわゆる自由主義経済の時期などのそれのような一時的過渡的の自由ではなく、封建専制に対する国民民衆の自由独立であり、それなくしてはルネサンスもないばかりでなく、近代も現代もないところのものである。
(p27)

・歴史上の封建主義の支配の原則は、Devide et impera!
民衆を分裂させよ、しかして支配せよ、ということにあった。(p36)
 
・耐え難い抑圧のゆえに故郷を出奔したははじめは多少なりとも人間らしい主人をもとめ
、あるいはどこそこの領地の農奴という身分を隠して他郷に入り満一年とか潜伏して、ついにその身分を脱するとか、あるいは社寺巡礼の団体などについて行ってそうした口実のもとにいづこにか、新しい運命を開拓しようと放浪した。(p46)
(これが十字軍を教皇が起こす前に、自然発生的におこった東方へとむかっていく、エルサレム巡礼という社会現象なんでしょう。副島先生がおっしゃっていました。『隠された歴史』でもマリア信仰は「わたしたちを虫けら同然にあつかわないでほしい」というわらをもすがる思いから発生した、と書かれています。)

・イタリアにおける最初の大衆的な農奴解放は必ずしもフィレンチェに始まったのではなく、あの聖フランチェスコ(1182-1226年 「あっ、慈円(じえん)や法然(ほうねん)と同時代なんだな。)が社会的同情を教え、貧者としての平等を説いたことは、農奴の大衆的解放が彼のいたアッシジの地方に始まったことと関係があるらしい。(p52)
「シチリアの晩鐘」という事件も有名ですね。
今日はここまでです。「都市の空気は自由にする」(フィレンチェ自由都市の成立)までいけませんでした。残念。
田中進二郎拝