[1110]陰謀論とは何かを読んで(2)
新刊「陰謀論とは何か」を読んで(2)
田中進二郎です。こんにちは。前回とその前の「シリア内戦について思うこと」(重掲1098)に誤りがありましたので、お詫び訂正します。
(1)「シリア内戦について思うこと」より訂正の箇所
×(末人:まつじん。もともとヘーゲルの言葉。それがニーチェの「ツァラトストラはかく語りき」に引き継がれ、ハイデッガーの科学技術社会の人間論になった。)
ヘーゲルの著作の中に「末人」も「最初の人」という言葉もどちらもでてこないようだ。
フランシス・フクヤマ著の『歴史の終わり』に書いてあった気がしたのだが、確かめてみるとなかった。ただ哲学のサイトも調べてみたところ、私と同じ勘違いをする人がいるみたいで、改めてフランシス・フクヤマが与える影響力の大きさを感じた。
勘違いした部分はおそらくこのあたりです。
(フランシス・フクヤマ著『歴史の終わり』(上)p168より引用)
1806年の「イエナの会戦」でひとつの歴史が終わった
ヘーゲルは、フォントネルやのちのいっそう急進的な歴史主義者と違って、歴史のプロセスは無限に続くわけではなく、現実の世界で自由な社会が実現したときにその終末を迎えるだろうと信じていた。言い換えれば「歴史の終わり」が存在するということである。
・・・(中略)・・・ヘーゲルは1806年のイエナの会戦(ナポレオン対プロシアの戦い)で歴史が終わったと宣言したが、・・・近代自由主義国家の成立とともに歴史は終わりを迎えるという彼の主張は、さほどまともには取り上げられなかった。
(引用おわり)
ついでですが、この本ではシリアのアラウィ派政権(バシャ―ル・アサドの父ハーフィズ・アサド大統領時代をさす)をイラクのフセイン政権とあるいはヒトラー政権、はてはギャングの「ファミリー」と同列に論じて、これらの「独裁の正統性」(公正、正義とは異なる)は必然的に消滅すると論じています。プラトンの『国家』にもそういう「正統性」をソクラテスが「盗賊一味の分け前の公平の原則」と指摘しているのだ、とフクヤマ氏はいっています。(上巻p85.三笠書房文庫版 1992年刊)このあたりはレオ・シュトラウスの教え(アリストテレス学派 副島隆彦著『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち」 p193参照)に近いように私は思う。F.フクヤマはその後、2003年のイラク戦争開戦前夜あたりから、ネオコンの論調から、一定の距離を置くようになった、といわれています。が、「永遠の相の下の保守思想」(「覇権アメリカ」p200参照)と完全に手を切ったのかは、最新刊のthe orgin of political order(政治秩序の起源)を読んでみないとなんともいえません。
ちょっとぱらっと冒頭をみましたが、今度はヘーゲルの「認知への欲望」が本当は猿から始まっていること、太平洋の島々の土人社会の研究などもふくんでいるようで、ダーウィンの進化論ですかね?(これは正確に読んでないのであくまでも印象にすぎません)。
(2)前回(重掲1107)の投稿より訂正の箇所
×(トルストイの『戦争と平和』に描かれたフリーメイソンはモスクワ支部のそれであり、当時の貴族たちがロシア皇帝アレクサンドル1世の主唱する神聖同盟を支持する考え方が濃くみられる。)
神聖同盟はナポレオンがロシア遠征に大敗北を喫してエルバ島に流された後、すなわちウィーン体制の成立と同じだから、1815年以降の話です。『戦争と平和』第二部は、1805年のアウステルリッツの戦い(三帝会戦)でナポレオンがオーストリア・ロシア連合軍に快勝を収め、ヨーロッパに覇を唱えた時期ですから、間違いです。
ちなみに新潮文庫、工藤精一郎(くどうせいいちろう)訳の第二巻のp107あたりからがフリーメイソンの入信の儀式のシーンです。
訂正は以上です。
最後に茂木さんへ。マリア信仰と修験道とをつなげる観点はすばらしいじゃないですか。
私は熊野古道めぐりが好きですが。大峰奥駆道(おおみねおくがけみち)は厳しいね。副島道場に修験道の部会あったらどうなんだろ?こわすぎる、それは(笑い)
田中進二郎拝