[1082]福島本部活動日誌です102

吉見 おさむ 投稿日:2012/08/26 05:50

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年7月28日、29日の日誌です。

(菊池さんはここの二階に、8月に入居するそうです。
移って来てみてからどうなるのか、予想はつきませんが、・・・・・・・・・・・・ま、月の半分なら、問題ないかとも思います。)

菊池さんが、南相馬の野馬追に29日に出店を出すので、それに行くことになりました。

28日午前11時に3人が車で来て、そこに荷物を積み込んだ後、私も南相馬に行きました。午後1時45分に野馬追の会場に着きました。
会場では、割と静か目の初日が行われていました。

道路を、衣装を着た人が乗った馬が、時折通り過ぎていきました。

馬つながりで、ゲル(http://ja.wikipedia.org/wiki/ゲル_(家屋))を出店の場所に建てる予定だったらしいのですが、作り方が十分に分らなかったのと地面が凸凹だったので、断念して普通のテントをたてることになりました。

午後3時前後で初日は終わったようで、行列になって脇の門から出て行きました。

午後4時、レンタルのプロパンガスが来ました。
一人は必ずテントに居るように、とレンタル会社の人から念を押されました。

午後9時、あるビジネスホテルの風呂に入りに、男3人で行きました。
途中で見えた南相馬の道の駅は、キャンピングカー等で満杯でした。
夕食は、道の駅近くの焼肉屋で食べました。
Kさんは、昨日から運転し通しで疲れていたようで、閉店する29日午前1時まで休んでいてもらいました。

Nさんは、なかなか格好良い大学生でした。
お父さんがイラン人で、バンクーバーに長く居たそうです。
(被災地を見られなくて残念そうだったので、写真を見せました。)

(←二枚目は、29日準備中の写真です)

29日午前2時にテントに戻り、私は持ってきた寝袋を使って休みました。(酷い寝床でした・・・。)
KさんとNさんは、車(ハイエースだったと思います)で休みました。

29日の午前7時から準備が始まりました。

午前8時、お手伝いのSさんという女の人が来ました。
作業をしながら、南相馬のことを少し訊きました。
午前8時40分、もう一人のお手伝いの女の人が来ました。
どちらのお手伝いの人も
「地元の人は、飽きちゃって来ない人も多いんですよね~」
と言っていました。

作ったのは、キルギスのうどんと水餃子でした。

午前10時に開店しました。
私は玉葱を切るのを手伝った後、水餃子を大量に包み、客の呼び込みをしました。

とても暑かったので、売れ行きは良くなかったです。

昼ごろに野馬追会場の観客席を見てみると、人で一杯でした。
(←この写真では、上のほうしかわかりませんが・・・)

午後0時半ごろ、消防士の人2人が手伝いに来ました。
余ってしまった餃子を、消防士の人が揚げ餃子にして、新商品に加えました。


午後3時まで売って、店仕舞いとなりました。

2日目の道路は、結構本格的な甲冑を身にした人が、騎乗していました。

28日よりも馬の数は多かったです。


読売旅行社のツアー団体が近くを歩いていました。

店を片づけた後、一度、荷物の積み下ろしのために、ビジネスホテルに行きました。
南相馬のビジネスホテルには、原発関連と思われる車両が停まっていました。

午後4時に南相馬から帰りました。
途中で野馬追帰りの渋滞に巻き込まれ、更に川俣町山木屋を通るルートを通ったこともあり、1時間半遅れて、午後8時に事務所に帰り着きました。
Kさん達は、さらにこの後東京に戻ったのですが、レンタカー返却期限の午前0時に間に合ったのか心配でした。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年7月30日、31日の日誌です。

野馬追で使ったものの片づけをしました。
燃えるゴミを出しました。
掃除機をかけました。
洗濯をしました。
車のエンジンを10分かけておきました。
外用サンダルを干しました。
駐車場の草を毟りました。
布団とソファーと枕カバーを干しました。

唐突に「海に行きたいかも・・・」などと呟いていました。
8月10日から有明に行くので、別にいいか、とすぐに思い直しました。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年8月1日~3日の日誌です。

(菊池さんから、入居は10月からになりそうだと、メールがありました。
一度実家に戻って、諸事を済ませなければならないそうです。)

古道体育館に工事の人達が入っていました。
公民館の方にプレハブが建っていました。
話を聞いてみると、外壁に多数の割れ目があるのと、館内の床が酷い歪み方をしているそうです。

1日、野馬追の出店で余った食材を、大家さん、Yさん、みや古旅館、ガソリンスタンドのWさん、に配りました。
配ったのは、ナツメヤシ、短角牛のひき肉を冷凍させたもの、うどん、でした。
なお、Yさんからは、お返しとして野菜類と漬物を頂きました。

2日、布団を干しているフェンスを、たわしで2時間洗いました。
フェンスはすぐに乾いたので、布団を6枚干しました。
運動靴を洗いました。
ソファーを干すついでに、冬用の防寒靴を干しました。

3日、草刈りを3時間しました。
直射日光の中の草刈りは堪えます。
草刈りの途中で中田先生から電話がかかって来て、福島に避暑に行くべきか訊かれたので、止めておいた方が賢明だと答えました。
気温の差が大きいと、日中は余計に暑く感じます。
それ以上に、都路は虻が多くて、夏こそ長袖と長ズボンでいなければなりません。

3日午後4時、Sさん一家(Sさん、奥さん、息子さん)が来ました。
4月のツアーにも参加した方です。
焼き菓子を頂きました。
ペットボトルのお茶とゼリーをお出ししました。
この後、おそらく車で検問所方面に行ったようです。

相も変わらず、食材の残りで酷い食べ物を作りました。
焼き鳥のタレを使った炒飯もどき、でした。
衛生上だけ気をつけるのが精一杯です。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年8月4日の日誌です。

午後2時、事前の連絡通り、Hさんと、ご友人のKさんが来ました。
(Kさんはhttp://www.r-system.co.jp/の社長さんです。ヨット仲間だそうです。)
お二人が都路灯祭り(http://www.minpo.jp/news/detail/201208052892)で水羊羹を無料配布するので、そのお手伝いに私も同行しました。

(以前、ビッグパレットでの炊き出しもお二人でされたそうです。
「イベント屋としては、震災の状況でも動けるのを示せる事こそ後々の財産になると思った」という発言に感心しきりでした・・・。)

午後2時半から8時半まで、水羊羹を配布し続けました。
2000個弱配布しました。
なお、私はひたすらに、スプーンを入れてパックを閉じて必要な分だけビニール袋に詰めていたのですが、3個落としました・・・。

午後3時から、特設ステージの方で演歌や合唱等が始まりました。

午後3時半前後に、地元のテレビ局と思われる人達がインタビューをしていました。

福島民報社の人と朝日新聞社の人が来ていて、水羊羹を食べていました。
NHKのディレクターが来て、Hさんとしばらく話をしていました。Hさんがここに出店するきっかけとなったドキュメンタリーを作ったディレクターさんだったそうです。

船引の仮設住宅からバスが出ていたようで、避難している地元の人が来ていました。

5時ごろだったと思うのですが、村の偉い人と並んで、玄葉光一郎外相が挨拶しました。
そのため一時間ほど前からSPの人達がスーツ姿で警戒していました。

「外務大臣を辞めた後は地元に戻って地元の土になるなんとかかんとか」と言っていました。

他の人も含めて、挨拶が長過ぎでした。
挨拶後に、拍手も何も起きない、全くの無反応だったのが気になりました。
いっそ野次が飛んだ方がまだ楽だったのではないかと思います。
Hさんが「SPに聞こえるように『東京で言ってみろよ。野次来るぞ』と言ったら、SPは苦笑いをしていたよ」と言っていました。
(玄葉外相の地元は船引なのですが、果たして都路は地元と言っていいのかわかりません。
既出のことですが、都路は田村市全体の中で船引より力がないので、何かを市でする際も後回しになっていることが影響しているのかもしれません。)

夜になって、竹筒に入った蝋燭に火が灯されました。

午後8時半、羊羹を配り終え、事務所に戻りました。
会場を後にする時、下の駐車場では、絆という文字を竹灯で作っていた事に気づきました。
参加者からKさんに「有難う」と声が飛んでいました。

事務所でお酒を飲みました。
その後、外風呂に入りました。
Hさん、Kさん、共に格好良く、感激しました。(Kさんの漢らしい話を聞いてしまったのですが、書くと性的嫌がらせだと思われてしまいそうですので、止めておきます。)
午後11時前後に順次眠りました。

Kさんは8/5も仕事があるようで、午前4時に起きて、東京に帰っていきました。

(転載終わり)