[1079]福島本部活動日誌です99
以下に、MLに投稿した内容を転載します。
(転載始め)
2012年7月5日の日誌です。
午前4時頃は、凄い雨が降っていました。
午後7時に、再び豪雨になりました。
布団と枕を干しました。
2階にあったタオルを、一度全て洗濯中です。
3~5月とは違い、強風がなくなったので、建物の外で布団と洗濯物を干せるようになりました。
地元の人が
「4月か5月に事故が起きていたら、風向きの関係で、こっちにも放射性物質が飛んできただろう」
と言っていたことを思い出しました。
午後1時40分に、一分だけ凄い雨が降り、一回取り込まなければなりませんでした。
ここ三日ほど、川内方面から郡山方面へダンプカーが走っています。
うち一台は土を満載して運んでいました。
おそらく除染した土ではないと思います。
除染した土は、青いビニールの土嚢の状態で運ぶはずだからです。
昼食は、ご飯、納豆、でした。
夕食は、ご飯、納豆、でした。
せめて葱を刻んで入れればよかったです。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年7月6日の日誌です。
午前8時50分発のバスとJRを使って、午後4時に秋葉原駅に到着しました。
秋葉原で必要なものを買いました。時間が無かったので、パソコン関係の品物を一個買い逃しました。
折角秋葉原に来ても、殆ど回る時間が無いのは残念でした。
官邸前のデモを見に行きました。
(自分で撮ったものは、
http://www.youtube.com/watch?v=_MWawK3q770&feature=youtu.be
http://www.youtube.com/watch?v=dLcybqYd9Yg&feature=youtu.be
http://youtu.be/MoCRPWUiH-U
http://www.youtube.com/watch?v=4h9wfwucznY&feature=plcp
ですが、初心者の下手な撮影になってしまっています。)
霞ヶ関駅を出ると、経産省前で10人くらいの人が、スピーカを使って抗議のマイクパフォーマンスをしていました。
そこから歩いてデモの方面に行ったのですが、警察の交通規制が上手く、前のほうには辿り着けませんでした。
永田町は、近くに新党大地の選挙カーが停まっているなど、やはり変わった所でした。
6/22の時も思ったのですが、首相官邸付近は、とても高そうな車が走っていました。
(下世話な話ですが・・・、今までに見た中で一番凄そうな車は、北京清花大学の構内で見ました。)
雨が降っていたので皆傘をさしていたこと、それから人数自体がかなりいたので、移動するのが大変でした。
途中で傘が壊れてしまい、家電量販店の袋を傘代わりにしました。
途中で半ば心が折れて、霞ヶ関駅に戻りました。
そして、経産省前でのマイクパフォーマンスを撮っていました。
「経産省はAKBと呼ばれてるんだ。アホ、カス、バカの略だ」
というのを聞いて、これは無関係なドルヲタ(アイドルオタク)を退かせてしまうのではないか、と思いました。
ある人の
「自分の住んでいる所は0.3μSv/hだ。具合が悪くなって病院で血液検査をしたら、甲状腺機能の低下が見られた」
という主張を聞いて、
「この人、399号線の北側通ったら、どうなっちゃうのかな」
と変に心配になりました。
(なお、7月初めに既に、飯舘村長泥と浪江町津島の境にはバリケードが設置されているそうです。
バリケードは、住民は通れるそうです。
8月下旬時点で、住民以外は399号線は一部のみ通行できる状態です。〔←注:殆どの399号線は通れない、と思っていた方がいいです〕
http://www.minpo.jp/news/detail/201207022265
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120702-00000005-maiall-soci)
「福島県人も同じ日本人なんだ。福島を見に行くべきだ。郡山では4μとかがザラの中で子供達が遊んでいる。国に避難を呼びかけよう」
などの主張もありました。
福島県出身者の人は、中間処理施設が出来つつあることについて述べていました。
やはり地元の人は、情報に対する反応が東京の人よりも、やや鋭いです。
通行人で2人ほど、「うるせー」と言った人と「Fuc〇 you.」がいました。
マイクパフォーマンスをしていた人達は、かなり激しく反応して言い返していました。
午後8時のデモが終わった頃、別行動でデモ隊を見に行っていたUさんから電話が入りました。
デモ隊が警官隊を破りはじめた、とのことだったので、急いで行ってみました。
ですが、私がついた時には、ごく一部で、デモ隊の3人と警官隊が見詰め合って喋っている(←変な表現ですみませんが、本当にこう見えました)くらいでした。(ネット上の俗語でいう、アッーという状態でした。)
その後、デモの主催者が歩道に戻るように言って、騒動のようなものは次第に無くなっていきました。
映像は
http://www.youtube.com/watch?v=s6ZIINl3KBg&feature=related
や
http://www.youtube.com/watch?v=fzeUUuY0wTs&feature=related
に上がっています。
(なお、ビデオについてですが、当たり前といえばそうなのですが、ビデオを撮っていると、カメラは撮れないことに気づきました・・・。
一枚も今日のデモの写真が残っていません。)
地下鉄霞ヶ関駅の改札近くで、UさんUさんの友人と合流しました。
デモの最中も電話で連絡は取っていたのですが、凄い人で合流するのは無理でした。
Uさんは「反原発デモは、最後の一瞬だけ暴徒化したが、その後すぐに主催者の指示を聞いて落ち着いた」と言っていました。
確かにデモの主催者は、(良くも悪くも、)警察の指示に従った管理・運営をしていました。
Uさんたちと夕食を食べた後、ファミレスで休みました。
明日は、ほぼ始発の新幹線で都路に帰って、その足で川内に行かなければならないので、眠るわけにはいきませんでした。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年7月7日の日誌です。
(色々な情報が一遍に入ってきて、書き漏らしがあります。)
(今思うと、言わなくても良い事を答えているのですが、これでもあの時には精一杯の対応をしたつもりでした・・・。)
午前5時53分の山手線で上野駅に行き、そこから新幹線、磐越東線、バス、を使って都路に戻りました。
すぐに、ビデオとカメラだけを持って、川内村に自転車で向かいました。雨だったので、体に辛い天候でした。
川内村に午前11時に到着しました。まだ野田首相は到着していませんでした。
川内村役場の村長室(と思われる部屋)は電気がついていて、人が二人いました。
川内村役場の駐車場にパトカーが停まっていました。
小学校に行ってみると、中に入って何かの作業をしている人がいました。
体が冷えたので、個人商店に入りました。ここのお婆さんにとてもお世話になりました。
カップ麺とパンケーキを購入しました。カップ麺にお湯を入れてもらいました。
店をやっているお婆さんと話して、野田首相は午後に来ることを教えて貰いました。
「今はまだいわきだってテレビでやってた。2時に、ゆふね。で、2時50分に小学校。その時刻に従って、集落ごとに人が集められてる。まだまだ時間ある」
とのことでした。
暫くして地元の人や都路町大久保の人が来て、雑談をしながら皆でお昼ご飯を食べることに、なぜかなりました。
「288号線と399号線の交差点の・・・」と言うと「ああ、あそこの人かぁ」と返って来ました。
途中でテレビ東京の人が二人でやって来て、パン等を買っていきました。
「遠藤村長は、村の中では色々言われている。あっちを立てればもう一方は立たない。かわいそう」
「都路の人は、川内は合併してなくて良かったね、と言うけど、市町村の平成の大合併のとき、川内はどこからも合併を嫌がられた、というのが本当のところ」
と言っていました。
(店のおばあさんは川内の別のおばあさんと、北海道に避難していたときのこと、・・・もっと言えば、北海道に避難して皆良くしてくれたけどやっぱり気が引けて川内に戻ってきてしまった事、について話していました。
病院について、「医者は仕事だから助けようとするのはわかるけど、次の3回目の心臓発作が来たら、そのまま死にたい。だから、定期健診とかは行くの自体大変だし、行かない」と言っていました。)
都路町大久保のお婆さんは、加藤さんが仮設住宅で演奏会をした時に、少し話した人でした。
午後1時20分、川内小学校にもう一度行ってみると、地元の警官だという人に話を訊かれました。
スーツ姿でした。
隣の村の者で、写真を撮りに来た、と言ったら、納得して笑っていました。
近くの駐車場には、福島放送の車がありました。
川内小学校で午前中からしていた作業は、ほぼ終わっているようでした。
午後1時半、体が寒くなりすぎたので、かわうちの湯のサウナに入りました。
併せて服を乾かしました。
そこに居た人達から話を聞けました。
「事故以前から原発に、記者やジャーナリストがスパイのように労働者として入っていた」
「自分は都路の20km圏内の人間だけど、原発に働きに行ってる。除染等もやってるけど、効果は無さそう」
と言っていました。
午後1時50分、かわうちの湯は、SPの人が駐車場を見張っていました。
午後2時11分、川内村のコンビニ付近をうろうろしていると、隣を車の集団が通り過ぎました。しばらくして、野田首相が、かわうちの湯の駐車場に来たことに気づきました。
普通の車が5,6台、マイクロバスが2台でした。今考えると、マイクロバスにはマスコミ関係者が乗っていたのだと思います。
野田首相は、かわうちの湯ではなく、隣の今は食品検査場になっている建物を視察しているようでした。
自転車に乗っていた私は、SPの人に
「警備の関係上、ここで止まっていて貰えますか?すみませんね。こんな遠くからで」
と言われて、遠くから写真を撮るだけでした。
川内小学校の方で待っていいか訊くと、そのまま真っ直ぐ行くように言われて、開放されました。
途中で消防士の人たちが駐車場の方に走っていきました。
午後2時26分、川内小学校に行ってみると、校門前でビデオカメラを構えている4人がいました。
小学校には既に住民が集まっていました。午前中に行った個人商店のお婆さんも来ていました。
小学校の駐車場にも車が一杯でした。
午後2時28分、野田首相が到着して、奥の建物(おそらく体育館?)に行きました。
首相が来ると思われるところには、住民と報道陣のカメラが集まっていました。
色んな所の映像を撮ろうとビデオを回していると、スーツ姿の警官に、脇にあった車に連れて行かれました。
Aさんという会津の警官の人でした。(やはり、会津弁は、独特にドスが利いています。)
どうも「反原発デモには核マルや中核派の人がいるので、その警戒中だったが、ビデオを録ってるので怪しい人間に見えた」ということのようでした。
(官邸前デモはビデオを回している人が多かったので、余り気にも留めずにビデオを回していました。
また、官邸前デモに過激派が入っていてビラを配っていたのは確かなのですが、参加者の殆どは、一寸変わっていたとはいえ、「普通の人」でした。)
「288号線の学問道場と描いてある看板の・・・」と説明してみた所、「会津から連れて来られたんで、地理がよくわからない」と返事が来ました。
もう一人いたスーツ姿の警官の人が、双葉署の人で、助け舟を出してくれました。
「学問道場と書いてある288号線と399号線の交差点の近くの・・・」
と言ったら、
「ああ、あそこね。本読んでます。」
と返ってきました。
(福島県警が先生の味方、というのは、案外本当かもしれません。)
野田首相が川内小学校で話している間、私はずっと警察の車(但し、パトカーではなく、普通の車です)に居て、話を訊かれていました。
(そもそも警備には、普通にパトカーを使うべきなのではないかと思いました。
・・・反原発デモの周辺を走っていた普通の車も、警察関係車両があったのだろうな、と、今やっと思い当たりました。)
ですので、首相の写真等は撮れませんでした。
先生の名前を出して、アメリカ政治思想研究が専門だと言ったら、Aさんは変な顔をしていました。
首相の大学の先輩で、話したことがある人だと言ったら、どうも問題は無さそうだと判断されたようで、空気が落ち着きました。
次の首相は誰なのか、と聞かれました。
先生は石破茂だと言ってる、と答えたら、黙った?というより、安心して落ち着いた?ようでした。
石原慎太郎東京都知事の尖閣諸島購入について
「ああいった発想はなかなかできない」
と評価するような事を言っていました。
併せて
「日本は中国の属国じゃないんだから」
と言ってました。
ここで先生の属国日本論や孫崎亨氏の考え(http://www.news30over.com/archives/6490744.html)を言ったら、どういう反応をするのか、目茶目茶興味ありましたが、場を穏便にすることを優先して、押さえました。
(でも今となっては、やっぱり言ってみるべきだった、折角の機会だったのに勿体無かった、と、大変に残念です。)
かまをかける質問だったのかもしれませんが、それでも、公務員、それも警察官が政治に関することを言ってしまうのは、問題かと思います。
このことは外に言わないようにと言われました。
最後に、警察の車の番号が映っている映像は、公開しないように言われて、開放されました。
(なお、公開はしていませんが映像は残っていますし、ビデオを止めるように言われるまで録音は続いていましたので、記録は残っています。
・・・そもそも、ビデオを撮ってはいけない、と警察官が言う事自体に問題があるのではないかと思います。
でも、検問所にいた他県の警察官なんかも、同様の問題のある態度を取ることが多いです。
中国の公安みたいなことはあまりしないのだから良しとすべきなのかもしれません。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120801-00000045-yonh-kr)
とってつけたような言い方で何ですが、一般的に見れば、Aさんはかなりいい警官なのだと思います。
もっと酷い警官は、一杯見ました。
福島県の田舎の気質というのは、右寄りというよりも、封建主義的、というものだと、私は思いました。
(8/4にHさんは、「それ以上に、権威主義的だ」と、より正確な表現をしていました。)
(やや福島の田舎を擁護しますと、権威主義的に回りに流されるようになるし、それで生きていくのに問題は無いのだと思います。・・・・・・擁護になっていないでしょうか。実際の所、私の地元も、あまり大差ありませんが、盲目的にお上を信用する事は無いです。(←まあ、その分、余計性質悪いのですが・・・)
それとも佐藤栄佐久『知事抹殺』の117ページに「私には「都会には人は育たない」という言葉が、強く印象に残った。」とあるように、こういった場所でこそ、新しい考えを育てるべきなのでしょうか。私にはわかりません。)
野田首相が帰った後、出てきた親と子たちが取材されていました。
かわうちの湯の休憩所で休みました。
個人商店で知り合った人達の紹介で、休憩所で休んでいる人達と話しました。
自己紹介をするだけで終わりました。
その後、隣の食品検査場に行ってみましたが、電気がついているだけでした。
午後5時に小学校に行ってみましたが、既に誰一人いませんでした。
午後5時半から自転車で一時間かけて、事務所に戻りました。
戻ってすぐに風呂に入りました。
最後に、これは日誌を外れるかもしれませんが・・・、昨日首相官邸前で抗議に行った人は、いわきや福島県庁ならば行きやすいと思いますが、そっちには行ったのでしょうか?
川内村には、おそらく一人も来ていませんでした。
(こういうのは、Aさんには悪いのですが、抗議したいなら、川内村がやりやすかったと思うのですが・・・。)
(転載終わり)