[1075]隠された歴史を読み解く!

田中 進二郎 投稿日:2012/08/17 03:43

新刊「隠された歴史  そもそも仏教とはなにものか?」を読んで(その2)
副島先生の本格的仏教論の紹介が、今日のぼやきに掲載されていますが(アルルの男中田安彦さんによる)、この壮大な試みについて、若干の解説というか、この書が生まれるまでの伏線を考えてみようと思います。というのも、仏教文化・思想というものに遠ざかっているわれわれ「現代人」=「末人」(まつじん ハイデッガーのことば)がいきなりこの本を読むと、朦朧状態になるのではないですか。私はそうでした。

いきなり読者はカウンターパンチを浴びせられます。私も2か月間予習をして(「鎌倉仏教」の範囲に限るが)、立ち向かいましたが、予期していた通り、かなりの衝撃でした。
加地君にもからかわれたのですが、「北魏時代(472年)に浄土宗は正式には曇鸞のあと、道綽(どうしゃく)、善導などの浄土教の高僧を輩出した。・・・そして、この玄中寺で大きくなった浄土宗が法然、親鸞たちによって13世紀に大流行した。と言われてもなあ。フランチャイズ(支店網)じゃないか。」(p110)あそこはカクーンとずっこけそうになった。(笑)やはり、日本の中でみていたってだめなのだ。

まあ人生諦めが肝心だ。グチグチ鎌倉仏教をこれ以上私が言ったところで、仕方ないので、路線変更して第1章の最初の10ページが生まれるまでの経緯(? 正しい表現が見当たらない)について思いめぐらせたことを書かせていただきます。
表題は「中宮寺の如意輪観音像(奈良)と広隆寺の弥勒菩薩の半跏思惟像を日本民族がマグダラのマリア(女)と気付かされるまで」とでもさせてもらいます。

(以下本文)
日本人が如意輪観音や、半跏思惟像が女性像であることを知って拝んでいた時代がかって存在したかという疑問も当然わいてくるのであるが、それは後回しにすることにして、
日本人がそれに気づくべきタイミングが歴史的に一度だけあっただろう。この機会はあと少しのところで逸してしまった。それは明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動のさめやらぬころ、一人のアメリカ人によってなされていたかもしれなかった。その名はアーネスト・F・フェノロサ。ややフェノロサの解説が長くなるが、ご勘弁を。

日本仏教美術が廃仏毀釈のさなか、ほとんどゴミ、二束三文で売られたり、たたきこわされていたなかで、フェノロサがいち早く、日本美術の素晴らしさに気がつき、それを蒐集して破壊から守ったのであった。明治11年(1878年)に来日してから、約20年の間に2万点以上の美術品が買い集められたという。(このほかエドワード・モースが陶磁器5000点を、ビゲローも浮世絵を中心に数万点を蒐集して、これらはボストン美術館「東洋部」のコレクションとなった。)明治初期の廃仏毀釈は決して仏教寺院関係のものだけが捨てられたのではない、伝統的な価値全体そのものが打ち捨てられた時代なのであった。
モースも、フェノロサもボストンから25キロほどはなれたセーラム市(マサチューセッツ州)の出身でモースがフェノロサを誘ったという。フェノロサは東京大学でJ.
S.ミルやカント・ヘーゲルを講義して、明治の人材を多く育てた。セーラムという町は奇怪な歴史を持っており、アメリカで唯一魔女裁判があった町なのだ。『フェノロサと魔女の町』(久我なつみ著 河出書房)には、有名な「緋文字」(ひもじ)を書いたホーソーンの一族の邸宅も保存されているということであるが、キリスト教の因習が強く残る土地柄であることがご理解いただけるだろう。そしてこの町で父親(スペイン人)が自殺をしてしまったのである。このことでフェノロサは町の人々から冷たい目でみられることになった。彼がモースとともに来日することになったのは、キリスト教の世界から追いたてられるようにであったという。上記の本の著者は,今もってフェノロサがセーラムの町でなんの顕彰碑もないことを嘆いている。

この点は同じマサチューセッツ州(アッシュフィールド)からやってきたクラーク博士(札幌農学校の初代教頭となったあのクラークです)とは全く状況が反対である。彼の方は、日本にくる途中、(1876年)船中で黒田清隆(のちに2代総理大臣となる)と大激論を繰り返し、「邪宗門=キリスト教は絶対にだめだ、頼むからそれだけはやめてくれ!」という黒田をとうとう説得してしまった。(『日本の農業につくした人々』筑波常治著 絶版より)

言ってみれば、フェノロサはキリスト教(プロテスタント)の価値観の世界から捨てられたから、日本で捨てられていた仏教を拾うことができたのだろう。フェノロサもビゲローも浄土真宗に帰依し、のちにフェノロサは園城寺(おんじょうじ 滋賀県大津市 天台寺門宗)で受戒した。フェノロサは井上円了らとともに仏教界の再建をはかるグループも形成していった。近代浄土真宗復興運動のリーダーといわれる清沢満之(きよさわ みちゆき)もフェノロサからヘーゲル哲学を習っていただろう。

『フェノロサと魔女の町』にはフェノロサの息子カノー(画家の狩野 芳崖かのう ほうがいから名前をつけた。)の葬式のときに次のようにつぶやいたと書かれている。「私の息子は復活するだろう。輪廻転生(りんねてんしょう)なのだから。」と。

そのフェノロサは、中宮寺の如意輪観音像について次のように書いています。
(Epochs of Chinese and Japanese Art 「中国および日本美術の諸時代」フェノロサ晩年の大著より引用 拙訳)
The impression of this figure ,as one views it for the first time,is of intense holiness.
No serious,broad-minded Cristian could quite free himself from the impulse to bow down before its sweet powerful smile.  
-この像を人が初めて目にする時に受ける印象はものすごい神聖さである。まじめで、広い心をもっているキリスト教徒ならばだれでも、この甘美な微笑の前に頭を下げたくなる衝動から逃れることはできないであろう-
(後半につづく)
田中進二郎拝