[1072]長井大輔君へ

田中進二郎 投稿日:2012/08/15 03:58

長井大輔君へ
前回は江戸幕府の公武合体策の終焉と会津戦争について所感を述べさせていただきました。
「今日こそは源頼朝の公武合体策と宗教政策について書こう」と思っていました。思っていましたが、『副島隆彦の論文教室』に長井大輔君の「日本権力闘争史~その5源頼朝編」(194論文)が発表されておりましたので、拝読しておりました。

私田中進二郎にはあそこまで、精緻な組み立てはできません。「はあ~」とため息をついてしまいました。あえて言えば、広瀬隆氏の異様に正確なロスチャイルド家につながる人脈とその歴史である『赤い楯』に似ているといったら、腹を立てられるでしょうか?
源頼朝の肖像として木像の写真を掲載しておられましたが、あれもあなたの高い見識のなせる業です。私はあの木像を奈良国立博物館の『頼朝と重源』展で見ましたが、あの木像が頼朝の実際の姿をかたどったものである、と書かれていました。有名な肖像画の方は似せ絵(肖像画)の傑作であるけれども、源頼朝の実像であるとは考えられていない。
あの木像の方は中が空洞で目もないので、どことなく暗い。すこし暴力団の幹部っぽい感じだった。権力者は自分をよく見せるために潤色を施すのが常であるが、あの木像には嘘が感じられなかった。
「石橋山で死ぬはずだった頼朝」のところで頼朝編(その1)を終えられているので、これから幕府の成立と頼朝の京都上洛へと進んでいくわけでしょう。

ただ一点あなたの頼朝編(その1)を読んでいて不審に思ったのは、頼朝の関東支配権確立の流れのなかに北条時政(ほうじょう ときまさ)が登場していないことです。「あれっ」と思いました。時政は頼朝が挙兵する際に北条一族の命運を頼朝に賭けたのです。石橋山の戦いの敗戦(1180年8月20日)ののち、頼朝一行は土肥郷(小田原市)より海路安房国(千葉県南部)に上陸します。(長井君の作成した関東勢力地図もご覧ください。)北条時政は安房から甲斐に向かい、河内源氏の血を引く武田太郎信義のもとをおとずれ、頼朝軍に合流することを要請します。時政にこたえて、10月14日甲斐源氏は富士山の西麓に出て平家方を破ります。これが富士川の戦いの前哨戦となります。10月18日頼朝が関東武士団を率いて黄瀬川(駿河国)に到着。
ここで甲斐源氏の軍勢が時政の先導でやってきて合流を果たします。(二万余の軍とされている。)そして10月20日早朝、富士川の戦いとなるのです。
富士川の戦勝後、時政の軍功は頼朝に高く評価されます。のちに北条時政は頼朝から「北条殿」と呼ばれ、御家人の中でも別格扱いであったのも、このときの功労が大きかったのでしょう。

以上のことは小野 真一著『裏方将軍 北条時政』(ぎょう文社)に書かれていました。
(小野氏は静岡県の郷土史家です。)頼朝の死後、執権となり、次々と天下草創の功臣や頼家ら源氏を消していった北条時政ですが、頼朝はとても頼りにしていたようです。鎌倉幕府の草創は時政の存在なくしてはなしえなかったかもしれない、と思いましたので、頼朝
編につづきがあるのは承知で補足させていただきました。

あともうひとつ、全然話題が変わってしまいますが、長井君が「重たい掲示板」1062(「保守派」の対義語は「進歩派」である)で疑問を出していた点について、ヒントになりそうなものがありましたので、この場で指摘したいと思います。
(以下長井君の疑問の箇所の引用)
進歩主義(progressives)とは20世紀初頭にアメリカで台頭した政治潮流であり、この流れの中から、セオドア・ロウズヴェルト、トマス・ウッドロウ・ウィルソン、フランクリン・D・ロウズヴェルトといった大統領が生まれ、保守的な南部民主党(サザン・デモクラット)の政治家たちを押し退(の)けて、現在の民主党の主流派となった。だから、そのまま、民主党の政治家や党員たちが、自分たちのことを進歩派と呼び続けていれば、なんの問題もなかった。進歩派がいつ頃から、自分たちのことを「リベラル派」と呼ぶようになったのかは、調べてみたが、分からなかった。
(引用終わり)
ここの部分についてですがロン・ポール先生が語ってくれているのを聞いてみましょうか?
(以下 新刊『ロン・ポールの連邦準備銀行を廃止せよ』佐藤研一朗訳 副島隆彦監訳・解説p35 第二章 連銀の「出生の秘密」より引用)
連銀は銀行カルテルである
では連銀はどんな時代に生まれたのだろうか。連銀が生まれたのは、今からちょうど100年前の進歩時代(Progressive Era)と呼ばれる時期である。この1913年に、同じくアメリカに初の所得税が導入され、そのための政府機関が数多く生まれた。産業界には、自社の利益だけを守り損失を社会に押し付ける風潮が蔓延し、カルテル(企業談合)を作ることがもてはやされた。
もちろん大手銀行も例外ではなかった。「最後の貸し手(ラスト・リゾート)」としての中央銀行がアメリカにはまだなかった。金融危機の際に救済してもらえないことを大手銀行の連中は不満に思っていた。救済システムがないので、破綻をするにしても自力で再建するとしても、銀行は自ら金融危機に対応しなくてはならなかった。(筆者注:「ううん、もっと進歩が必要だなあ」)
その前の南北戦争(1861年~65年)後には金本位制が導入され、しっかりと堅持されていた。金本位制はそれ自体の規制が働いて過剰な貸付を抑制する。そのため大手銀行は、信用(クレジット:銀行がローンを貸し付けること)を自由きままに拡大することはできなかった。(筆者注:「ううん、もっと進歩が必要だなあ」)
金本位制の下では、銀行は一般の企業と同じように自らのリスクを背負って商売をしなくてはならない。銀行はある程度まで自分の信用を拡大して、リスクの高い融資案件に貸出をすることはできた。だが、その投資先の経営破綻の際に、その損失を社会全体に押し付けることはできなかった。(「ううん、もっと進歩が必要だ。」)
(引用おわり)
もう、おわかりでしょう。Progressives(進歩派)とは何に向かって進歩するのか。
「社会全体の利益のため」というのはお題目にすぎない。「お金と銀行を中央集権化すること」が政府と大手銀行にとって進歩なのである。銀行が信用不安になっても、政府にツケを回せること、政府は国民にその負担をかぶせられるような制度をつくること、これが進歩なのである。銀行が望むように通貨量を膨張させておいて、生まれた損失を補填してもらうのである。これが進歩である。これを実現させるためには、自国民をいくらだましたってかまいやしない。「通貨に弾力性を持たせる」ことが農民にとって利益になることだと洗脳すること。「信用創造」money multiplyerは素晴らしいパラダイスだと、ゴールド・ラッシュ時代の再来だと西部民に信じさせること。これはアメリカのマニフェスト・デスティニー(明白な運命)だと宣伝しまくる。これで一時的な好景気(バブル)が到来する。そしてその15年後、世界大恐慌は起こっていく。

言葉というのはこのように使われているのです。ですから単純にprogressivesが社会の改善をめざす人たちなんていうふうに考えたらだめよ。言葉は分類よりもまず使用されるためにある。また使われた言葉にも意図的な捻じ曲げが働きだすのが啓蒙時代以後の世界だと私は思っている。長井君、がんばろう。応援している。
田中進二郎拝