[1071]孝明天皇暗殺と会津の悲運について

田中進二郎 投稿日:2012/08/13 06:45

明治維新の闇 公武合体策の終焉について思うこと
半年ほど前に、加地龍太君と明治維新の隠された歴史について、メールで意見を交換した。
加地君は副島先生の著書「時代を見通す力」を参考に、イギリスのグレート・ゲーム(18世紀から第1次世界大戦まで続く世界統治)の中の幕末・明治維新についてインナー・サークルの存在について教えてくれました。
孝明天皇と14代将軍徳川家茂(いえもち 孝明天皇の妹和宮が江戸に降嫁して家茂の正室となった)の間で進められていた公武合体策は、インナーサークルの一員であった岩倉具視と西郷隆盛らによって押しつぶされたのだろう。
副島先生は、孝明天皇も徳川家茂も彼らによって暗殺されたのだと述べられている。1866年7月20日に徳川家茂は大阪城にて病没した(ことになっている)。幕府による第二次長州征伐は総大将の死で終わりを告げた。また同年12月25日に孝明天皇は疱瘡(ほうそう・天然痘)にかかって病没した(ことになっている)。

西郷隆盛は天皇のことを「玉」(たま・ぎょく)と二通りに使い分け、時に応じて崇め、恭順の態度をもっていたが、裏では「たま」と呼んで新政権樹立の障壁となる孝明天皇を闇に葬り去った。家茂の死の真相はまだ調べていないが、孝明天皇の死については歴史作家の中村彰彦氏(あきひこ)の『幕末会津藩』(歴史春秋社)で以下のように述べられている。

(以下 『幕末会津藩』の「孝明天皇は暗殺されたか」より引用・要約)
孝明天皇は疱瘡にかかって死んだというのが定説だが、天皇の主治医の日記によると、疱瘡は快癒に向かっており、12月25日の朝は表に出てもいいくらいの体調であったという。ところが午後4時に突然苦しみ出し、血便を流し続けた後、6時間後に崩御した。煎じ薬の中に、砒素(石見銀山のものとされる)を混入したとみられ、犯人として、女官で岩倉具視の姪の堀川局(ほりかわのつぼね)が有力である。もし、孝明天皇陵を発掘し、亡骸から砒素が発見されれば幕末維新史は大幅な書き換えが必要になるだろう。
 公武合体派の孝明天皇を暗殺したグループが、幼帝明治天皇を立てて薩長両藩に倒幕の密勅(これも偽勅である)を与え、暴走したというのが明治維新の実態である。
(引用終わり)
中村彰彦氏の指摘は大事であるが、「薩長対幕府(あるいは会津藩など)」という構図からしか結論を出していないところが不備である。もっとも中村氏は会津戦争の研究家であり、どうしても松平容保(まつだいら かたもり 会津藩主)の肩を持ちたくなる心情はよく理解できる。容保は京都守護職につき、孝明天皇の信任が最も厚かった。が、孝明天皇の死後、会津藩の命運は暗転。新撰組による尊王攘夷派の暗殺、蛤御門の変での長州藩軍の撃退、と活躍した藩主松平容保は今度は討幕軍の復讐のターゲットとなった。もともと松平容保は幕府の中で孤立していたようだ。京都守護職という役も他の譜代大名はいやがっていて、無理やり押し付けられたらしい。しかし孝明天皇は閲兵式などをご覧になり、つねに心強く思われていた。これは院政期に上皇たちが北面の武士(源氏と平氏)をおいて僧兵たちの強訴に備えていたのと同じ心境であったのかもしれない。孝明天皇も自分の身に危険が迫っていることを察知していたのかも知れない。だがやはり、孝明天皇は殺され、会津藩は新政府軍にめった打ちにされる。ここから会津のひとびとは塗炭(とたん)の苦しみを強いられる。

 ちなみに福島(特に会津人)の古老の方々にとって、太平洋戦争は「敗戦」ではないそうだ。彼らにとって、敗戦とはあくまでも会津戦争での敗戦であり、太平洋戦争は「官軍」と称した野蛮人たちが「自滅」していった戦争という位置づけなのである。だから「ざまあみろ」ということなのであるが、どうも「官軍か賊軍か」という思考に呪縛されているように私には感じられる。会津の人々は「お上」を嫌いつつ、お上のつくった歴史観に修正をもとめている。(中村氏の「明治維新史の大幅な書き換えが必要」という主張にはそういうものが読み取れる。)しかし、歴史というのは「会津藩が正しかった」式の答えでどうにもなるものではないだろう。それをつきつめると「皇国史観」になるだけのことだろう。
属国日本の皇国史観か。土民国家らしいな。

だが歴史的にもっとさかのぼっていって、律令国家にまつろわぬ民、とされた東北の「蝦夷」たちがアテルイを首領に戦ったが、桓武天皇が送った征夷大将軍 坂上田村麻呂によって鎮圧された。(西暦800年ごろ)だが東北人は今も坂上田村麻呂が好きである。青森のねぷた祭りでは、坂上田村麻呂が英雄として登場する。「彼は鬼のように強いが、子供にはやさしかった」、とか「アテルイを処刑しないでくれという嘆願を桓武帝に行った。」(アテルイは結局京都に送られて首をはねられた。)とかそんなエピソード、侵略者側の(体制側の)つくりあげた美談に1000年以上も信じつづけていては救われないだろう。いっそのこと、ねぷた祭りなんかやめてしまえ。(今頃元気にやっているんだろうけど・・・)

こういう「抑圧された者の保守性」のことをさしてであろうか、副島先生が今年四月の「福島難民キャンプツアー」で「会津若松というのは時間が止まってしまったような町である」という風に表現されていたが、本当の支配を打ち破るには「自分」の中にある負け犬根性からたたきなおさなければ始まらないのであろう。日本国全体がうなだれているような空気の中で、どのような人間としての誇りを保つべきであろうか?すくなくともそれは「郷土愛」のようなものだけではだめなのだろう。そのようなものも大部分は「創られた伝統」
(歴史学者ホブズボーム)なのであるから。むろん私は東北の人々の人間性を批判しているのではない。だが騙され痛い目にあわせられ続けることがいやなら、共同体の中に埋め込まれた支配にもっと敏感であるほうがいいだろう。その意味で3月ごろに「重たい掲示板」に川原浩さんが書かれた、福島に今も残る「五人組制度」についての論は刺激的だったな、と思う。

鎌倉幕府の公武合体策について書こうと思っていましたが、その前に江戸幕府の公武合体について以前から考えていたことを書きました。この一週間は仕事がないのでできるだけ、書いてみます。
田中進二郎拝