[1056][隠された歴史〕を読んで

田中進二郎 投稿日:2012/08/03 08:02

副島先生の新刊「隠された歴史 そもそも仏教とは何ものか?」(PHP研究所)を読んで

この2ヶ月ぐらい、ずっと待っていた本が発売されました。副島先生の仏教論です。
私が鎌倉仏教について書いていたのも、じーっと待っているだけではだめで自分なりに研究しないと、副島先生の本を理解できないだろう、という思いがあったからです。
鎌倉仏教の歴史のさらにほんの20年~30年ぐらいの期間にも、私ごときはてこずってしまっていますが、1500年の仏教史をどのように副島先生が斬りまくっていくのか、興味がどんどん膨らんでいきました。

これまで、書店にならんでいる仏教本の多くは、仏教に外側から接近しようという人にむけて書かれたもの、高僧の伝記や思想の紹介、それからやたらと専門的なお経の解説書というようなものに満ち溢れています。けれどもそれらを読んでも、「何故に無宗教の現在があるのか?」とか、「日本国民と仏教徒の関係」みたいなことは実はわからないままではないか?
ところが現実に、宗教団体の内側にいる人は自分が属している宗派の優等性を盲目的に信じるよりほか、なにも残されていない。一般大衆にとっては「あほだら経」にすぎないお経を今日も唱え続けるよりほかはないだろう。まず16宗派=浄土宗・天台宗・浄土真宗・法相宗・真言宗・日蓮宗・臨済宗・曹洞宗・三論宗・成実宗・倶舎宗・華厳宗・律宗・黄檗宗ほか(区分の仕方はひとつではないようだ)とやたらに数が多い。「仏陀の教え」と称しているセクトの数の多さがかえって、ブッダの教えそのものから人々を遠ざけているようにも見える。この背景には、鎌倉時代以来の、沢山ある教義のなかから、どれかひとつを選んでいいよ、という選択(せんちゃく=choice)という考え方があることも一因ではあるだろう。それぞれのお経の本当の意味などわからなくてもどれかひとつを選んで一生懸命念仏すればそれで救われますという考え方は、法然が唱え始めたものだ。(選択本願念仏集)もっとも現代の日本人にとって、主体的にどれかひとつの宗派に自分から帰依しようなどということは、まず考えにくい状況だが。

 16もの宗派が残っている消極的な要因として、真っ先にあげるべきものは、江戸時代の初期に幕府がとった、宗門改め(しゅうもんあらため)・檀家制度による、民衆統制政策に寺社が利用されたことであろう。伝説になりはじめてもいる小室直樹博士記念シンポジウムにおいての副島先生の演説で、
「檀家制度の下で、江戸時代の農民は毎週寺で何時間も説教をきかされた。・・・今でも東大法卒の官僚がよくわからないやたらと難解な言葉を使って、民衆をだましつづけているが、『俺らはどうせ頭が悪いしなあ』とお上のいうことに従わされる。・・・そういう民衆たちの坊さんへの怒りが一回だけ爆発したのが、明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動だ」
とおっしゃっていましたね。
檀家制度、宗門改めはキリシタン摘発という口実で、民衆の思想統制を幕府が巧妙に進めていったので、これらはきっと、われわれ日本人の無意識の層に影響しているのである。
たとえば学校などで昔よく、いたずらをした子供は先生に正座をさせられたものであるが、正座が体罰になったのは、寺請制度で檀家にむりやりされた農民たちの肉体的苦痛、精神的苦痛が呼び覚まされるからだろう。少なくとも、「正座しなさい!」と命令する教師が、反省させて悟りを開かせようと思っているわけではない。そんな教師がいたら本当にこわい。
 島原の乱(1637年)以後、最初はキリシタン(邪宗門)の人間を密告した者に対して、300両(五人家族が4年生きていける金額だという)の褒賞を与えるという幕府のお触れがだされた。民衆にとっては半信半疑、宝くじ当たるよ、みたいなうれしいニュースだっただろう。絵踏みだって、マリア像を踏むだけでいいのだから楽勝である。(クリスチャンの人が読んでたらすみません)でも実際、踏み絵に町家の娘たちは年中行事みたいに着飾って行ったということである。
 しかし、気づいたときには全民衆が統制網にかけられていたのである。仏教寺院も末寺に位づけされたところではなにが起こっているのか、さっぱりわからなかったかもしれない。寺請け制度、宗門改め人別帳(にんべつちょう 所属する宗派が記録された戸籍台帳、)、などとともに五人組の相互監視体制もしかれていくことになる。

「坊主憎けりゃ袈裟(けさ)まで憎い」という言葉は江戸期のこういう背景から生まれてきたのだ。ついでながら、これらの仏教を通した思想統制政策の元締めは、どうやら寺社奉行ではなく、大目付であったようだ。では寺社奉行は何をしていたのか。(寺社奉行というのは鎌倉時代からあったらしいが)これは、三重県の紀伊長島町にある、有久寺(ありくじ)という寺の住職からうかがったことであるが、寺社奉行は年に一度全国にある本山(ほんざん)の僧侶たちを集めて、各藩の内情を報告させたそうだ。だから僧侶は大名のスパイの役割も果たしていたのだ。「それは大目付の仕事ではないのか」、と思うかもしれないが、江戸幕府は二重、三重の監視体制を敷いていたのである。それは大名以外の監視対象についてもおなじことがいえる。

以上のような幕藩体制下の仏教の腐敗に対して、時代が下るにつれて、批判者が現れてきす。安藤昌益(あんどう しょうえき1703-1762 陸奥国八戸の医者)は自然真営道(じねんしんえいどう)の中で、法然や日蓮など聖人とされる高僧を口汚くののしっている。安藤昌益は封建制度の中で仏教が救いがたいほど腐っていることを訴えたのだ。私はこのような批判言説というのもアリなのだろう、と思っている。時として周辺から中央を批判する場合にはこのような言い方しかできない場合もあるのだ、と。私は農本主義というものをあえて敬遠していたので、詳しくはしりませんが、封建主義の批判者としてこれから少しは読もうと思っています。

さて前置きが長くなってしまったが、副島先生の『隠された歴史』では先生の他の著作と同様、外からの批判というのはしない。それはこの本のすべてに一貫している。つまり副島先生の毒にみちみちており、(ここでいう毒とは、たとえばワーグナーの音楽には毒があるというような意味です。)人生の中で出会われた人々への重たい思いが詰まっているのである。私がこんなことを書いているのは明らかに僭越なのであるが。

日本仏教16宗派の淵源や意味が、ブッダそのものの言葉と生き方から解明されていく。しかしまず、巻頭では中宮寺の如意輪観音像と広隆寺の弥勒菩薩の半跏思惟像(はんかしゅいぞう)は明らかに女性の像である、そしてそれらはマグダラのマリア像だ、といきなり読者はぶつけられる。このことについて少しだけ調べてみたのですが、仏像の名前にはいろいろあって、詳しいことはまったくわからないのですが、これは「女性だ(マリアだ)」と決定できるのはやはり「弥勒または観音菩薩立像」と「如意輪観音像」と名前がついている仏像で、「如来」と名前がついているのはだいたい男性像であるということです。(阿弥陀如来がすべて男性像だけとは断言できませんが。)「小金銅仏の魅力(中国・韓半島・日本)」村田靖子著という本を参考にしました。この本には10cmから30cmくらいのマスコット仏像(4世紀から13世紀)の写真が数多く収録されています。

ついでながら、小金銅仏には右手だけ頭上に高く上げた、上半身裸の男の子の像もあります。このポーズの像は誕生釈迦如来像(たんじょう しゃかにょらいぞう)というのですが、(「天上天下唯我独尊!」(てんじょうてんがゆいがどくそん)と叫んでいるところでしょう。)これは、なんだろう?と考えてみると、日本の太子信仰(聖徳太子信仰)とつながっているものなのかもしれない、と私は思います。「菩薩や観音はまだ仏になっていないのだ」という考えも中世日本にはあったそうで、太子もまだ天皇(または王)になっていないから同じという考え方が、東アジアに一般的に広まっていたそうなのですが、(小峰和明著 「中世日本の予言書」岩波新書p74)
それと、誕生釈迦如来がなんらかの関係がありそうだな、と勝手に考えています。

これまで観音菩薩や弥勒菩薩、如意輪観音が女性像(マリア)だということなどは一切いわれてこなかったのはなんでだろうか?いや隠されてきたのは何でだろうか。
みなさんも知のカーニヴァルのような『隠された歴史』をお読みになり、色々に考えてみられたらいかがだろうか?
田中進二郎拝