[1046]場所の力
会員番号1149番の茂木です。
建築について書いたブログ記事をこちらにも転載しておきます。
http://celadon.ivory.ne.jp
眼目は、
「世界は、XYZ座標軸ののっぺりとした普遍的な空間に(均一の時を刻みながら)ただ浮かんでいるのではなく、原子、分子、生命、ムラ、都市、地球といった様々なサイズの「場」の入れ子構造として存在する。それぞれの「場」は、固有の時空を持ち、互いに響きあい、呼応しあい、影響を与え合っている。この「場所の力」をベースに世界(という入れ子構造)を考えることが、モノコト・シフトの時代的要請なのである。」
というところです。これは建築だけではなく、物理や医学その他sciece全般に言えることだと思います。ご意見などいただければ嬉しく思います。
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場所の力(7/31/2012)
先日「都市の中のムラ」の項で、建築家隈研吾氏の“新・ムラ論TOKYO”(清野由美氏との共著)を紹介したが、“場所原論”隈研吾著(市ヶ谷出版社)は、同氏が、己の建築思想をさらに自作18事例と共に語った優れた本である。副題には、“建築はいかにして場所と接続するか”とある。まず解剖学者養老孟司氏の書評から引用しよう。
(引用開始)
生きものは「場所」に生きている。昆虫を調べていると、しみじみとそう思う。同じ森の中でも、特定の場所でしか見つからない。
それに対してヒトは生きる範囲を徹底して広げた。さらに近代文明は遠い場所どうしを縦横につないで、途中をいわば「消して」しまった。横断の典型が新幹線であろう。それによる被害を回復しようとして、海山里連環学や、川の流域学が生まれてきている。著者が場所と人の身体との関係性の回復をいう言葉の中に、私は似た響きを聞き取る。世界の重要な部分を切れ切れにしてしまった現代文明に対して、そこには未来の息吹が明らかに感じられる。(中略)
著者は現代建築が現代建築になってしまったそもそもの始まり、そのいきさつを最初に語る。「建築の歴史をよく検討してみれば、悲劇から新しいムーブメントが起きている」。その典型として、一七五五年のリスボン大地震を挙げる。この地震を契機として近代が始まったと著者はいう。人々は「神に見捨てられた」と感じ、「強い建築」に頼ろうとした。それが最終的には鉄とコンクリートによる高層の建物を生み出す。もちろん著者がこう述べる背景には三・一一の大震災がある。ここでもまた、大きくか、小さくか、人々の考え方が変わり、歴史が変わるに違いない。「建築の『強さ』とは、建築物単体としての物理的な『強さ』のことではないのです。建築を取り囲む『場所』の全体が、人間に与えてくれる恵みこそが強さであり、本当のセキュリティだったのです」(後略)
(引用終了)
<毎日新聞 6/3/2012>
養老氏と隈氏には、今年2月に出版された“日本人はどう住まうべきか?”(日経BP社)という共著もある。
水や石、木や和紙などを巧みに使った18の事例はどれも素晴らしいが、この本には、インターナショナリズム、ユートピア主義、アーツ・アンド・クラフツ運動、モダニズム、ポストモダニズムといった西洋建築思想の流れが、プラトンとアリストテレスから始まりデカルト、カント、ハイデッガー、デリダに至る西洋哲学の変遷と併せて記述され、その上で、隈氏の考えるこれからの建築のあり方が提示されている。詳しくは本書をお読みいただきたいが、大雑把に言えば、これまで西洋建築思想は、普遍主義をベースに、プラトン的な「客観的構造論」とアリストテレス的な「主観的空間論」との間を行ったり来たりしていたけれど、これからは、「コトの起こる場」をベースに、この二つ(「客観的構造論」と「主観的空間論」)のバランスを取っていくことが求められるというものだ。「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)の項で述べたように、これからの時代、建築は、建物という「モノ」自体よりも、「コトの起こる場」の力を大切にする考え方が重要になってくるわけだ。
私の「複眼主義」に引き付けていえば、「客観的構造論」は脳の系譜、「主観的空間論」は身体の系譜に分類できる。その二つをバランスさせる「場所」は、「都市の中のムラ」であり、そこに暮らす人々である。隈氏の「場所」の定義を本書から引用しておこう。
(引用開始)
場所は単に体験の対象ではなく、生産する開口部なのです。その開口部から地に足のついた建築が生み出され、大地と一体となった生活が生み出されるのです。
「生産」という活動に目を向けたとき、突如として、「場所」は光り輝き始めます。開口部(場所)の力によって建築と生活とがひとつに結ばれ、建築をきずなとして、場所と生活とがひとつにつながれるのです。
「開口部」という言葉に注目してください。開口部とは本質的に小さいものなのです。小さいからこそ、それを開口部と呼ぶのです。だだっぴろく、とりとめのない大きな世界の中に存在する、小さな開口部が「場所」なのです。
場所とは、そもそも小さいものです。小さいからこそ、ものをふるいにかけ、生産を行なうことができるのです。「国家」という場所は、すでに大きすぎるのです。もっと小さな場所こそが、場所と呼び得るのです。
(引用終了)
<同書 30ページ>
隈氏のいう生産のための「小さい場所」とは、「ヒューマン・スケール」の項で紹介した平川克美氏の「いま・ここ」(小商いの場)という概念とも重なる。
世界は、XYZ座標軸ののっぺりとした普遍的な空間に(均一の時を刻みながら)ただ浮かんでいるのではなく、原子、分子、生命、ムラ、都市、地球といった様々なサイズの「場」の入れ子構造として存在する。それぞれの「場」は、固有の時空を持ち、互いに響きあい、呼応しあい、影響を与え合っている。この「場所の力」をベースに世界(という入れ子構造)を考えることが、モノコト・シフトの時代的要請なのである。