[1042]フフホト通信(山東省青島市から)

石井裕之 投稿日:2012/07/30 01:15

「お金」と「性」。
非上に興味深い話題なので、是非参加させて下さい。

私の考える「お金」と「性」は、両方とも宗教です。
その意味ではスピリチュアル性を帯びているのでしょうか?
そして、宗教というからには当然、善、悪があるのです。
一夫多妻は禁じられています。日本では法律でも禁じられておりますが、道徳観念上もダメですね。人としてどうなの?って感じです。
当然、仏教でもキリスト教でもイスラム教でも固く禁じられています。
そこで一つの疑問が生じてきますね。
何故固く禁じなければならなかったのか?!
ちょっと捻くれた言い方ですが、ヒトでなくなるから禁じなければならなかったのではなく、禁じなければ人でなくなるから禁じたのでしょう。
極めて生物学的にヒトを定義してしまうと、種の保存が必ず正義ですからフリーセックスが大正解の筈です。10歳で子供を生もうが80歳で妻を娶ろうが、それが強さの証ですから全てOKです。
しかし、いつの頃からかヒトが言葉を理解し集団を作り、ムラ社会を形成し始めたころから、フリーセックスでは諍いが絶えないことが理解され、これを一定のルールの中で運営していかざると得なくなったのですね。こういったムラ社会を円滑に運営するための基本マニュアルが言い伝え、習慣、宗教へと名前を変えていくわけです。

さて、「お金」です。
驚くべきことに、江戸末期まで日本のGDP(GNPでも良い)のほとんどを米の生産で賄っていました。すると豊かさの指針は米であり、如何に沢山の米を生産する為のヒトと環境(土地も含めて)を保有しているか、ということになります。
貨幣(=お金)も流通していたでしょうが、商人や役人の間でチマチマとやり取りに使われていたに過ぎず、大方の民百姓の間ではほとんど意味を持たなかったことでしょう。だって普段の生活に必要ありませんから。無いものは求めませんし求められません。
その日本に変化が訪れます。明治維新ですね。西洋から民主主義という宗教と一緒に資本主義の考え方が入ってきます。
資本主義の下では、豊かさ=富=お金です。
今一度生物学的に言うと、ヒトの強さは文字通りの強さ=力の強さだった筈です。喧嘩が強いとでも言いましょうか。
しかし、資本主義の考え方ではお金を沢山持っている方が強いのです。手元に100万円持っている人よりも1億円持っている人の方が強いのです。しかも尊敬もされます。
お金の起源も、物々交換では諍いが絶えないために、ある一定の基準を設ける必要が生じたことからではないでしょうか。ネギ×3把=小ぶりの秋刀魚×1匹なんてやっているよりも、ネギ1把=1円(単位)、秋刀魚=3円(単位)、鶏=20円(単位)と絶対的な価値付けをしておいた方が明らかに揉め事が置き難いからです。

すると「性」や「お金」を規定する宗教とは一体何なのでしょう。
これは結局のところ政の道具に過ぎないのでしょうね。
一定の権力を持った人は、必ず「性」や「お金」を沢山保有します。では、一般市民にあまり大きな権力を持って欲しくない時の為政者にとって都合よく民草をコントロールするための言い訳が宗教だということです。
ですから、我々は小さいころから「お金」に対しても「異性」に対しても無欲に接することを教え込まれる訳です。
だって、「お金」や「異性(=人口)」を沢山持たせてしまうと、国家が転覆してしまう恐れがありますものね。
要するに「お金」も「性」も、ロマンティックなものでも何でもない、ということです。

日本では腐れ坊主が妻を娶り、愛人さえ囲っていることがありますね。しかも納税の義務がありませんからお金持ちです。脂ぎった顔をテカらせて偉そうに説教タレている暇があったら、貧乏な民草に施しをすべきです。
無論、非難されるべきは腐れ坊主だけではなく、無能政治家や木っ端役人も然りですが。