[1022]鎌倉仏教のなぞを解く
鎌倉仏教の謎を解く 第7回
前回までは自由に書かせて頂きましたが、このペースでやっていくと収拾がつかなくなり、読者諸兄にも失礼に当たりますので、大体以下の論点にしぼっていきたいと思います。
ポイントその1 慈円の「愚管抄」が、他の歴史書とどういう点で異なるのか?予言する未来記としての歴史書。東アジアに広がっていた「想像の共同体」について。
ポイントその2 比叡山の仏教(最澄)の真の伝統と法然の選択念仏(せんちゃくねんぶつ)の違い・・・聖俗一如の最澄(慈円もその継承者)と往相・還相浄土の法然・親鸞の浄土門。親鸞の教えは日本のプロテスタンティズム(梅原猛氏)か、それとも日本の唯名論(吉本隆明氏)か?
ポイントその3・・・政治家慈円と宗教家親鸞の決別。親鸞の前半生の謎を解く。
政治と芸術と宗教が交叉する一点。親鸞の悪人正機の起源についての仮説。浄土真宗が認めたがらない諸諸の点。
ポイントその4・・・頼朝から実朝へ・・・鎌倉将軍の宗教的霊威の没落。頼朝の公武合体策はいかにして失敗したか。
(以下本文です。)
奈良国立博物館で「頼朝と重源(東大寺再興を支えた鎌倉と奈良の絆)」という特別展が始まったので、早速休日を利用して見て参りました。鎌倉仏教史のなかでも重要な出来事のひとつが、1195年の東大寺再建の供養式(のあたり)であると私は考えていますので、ちょうどいいタイミングだなと思い、行ってきました。伝・源頼朝の肖像画(一番有名なやつです。)、や重源の彫像をはじめとした、東大寺再建に重要な役割を果たした人物たちの肖像画のほか、再建に関する記事が書かれた古文書群(九条兼実の「玉葉」、東大寺所蔵の文書群)などが展示されており、見た甲斐がありました。(特別展は9/17まで)
ただ、予想した通り、大檀越(だいだんおつ、寺社に莫大な寄進をおこなった檀家さん)と呼ばれた源頼朝であるが、その莫大な東大寺への寄進はどうして可能だったのか、言い換えれば金はどこから出たのかということ、これについてはほとんど説明がなかった。
史実は頼朝が1185年に東大寺大仏の金めっき代として1000両出していたのに対し、奥州藤原氏の秀衡(ひでひら 三代目)は金5000両を寄進している。ここまでは秀衡にも余裕があった。しかし、平家が壇ノ浦で滅んでしまうと、西の脅威がなくなったため、頼朝率いる関東武士団と奥州藤原氏の軍事力の均衡は崩れる。秀衡は翌年からの京都への貢納は頼朝を経由することを約することに同意せざるをえなくなる。さらに秀衡が病死して、1189年頼朝は奥州征伐を行う。平泉は、焼け野原となったが、それでも残された奥州藤原氏の財宝の多さに、頼朝は驚嘆するほどだった。これらの戦利品や、新たに任命された幕府御家人の東北経営によってあがった利益から、東大寺の再建の費用はまかなわれたのである。
(本郷恵子著「京・鎌倉二つの王権」小学館 p154を参考にした)
これはただの余談なんですが、福島県いわき市に白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)というのがありますね。(今年の福島合宿の時にバスは素通りしましたが・・)あれは奥州藤原氏の初代清衡の娘が建てさせたものだそうですが、白水というのは一字で書くと、「泉」になりますね。それといわき市の中心は平(たいら)という名前がついてますが、合体させると、「平泉」になるというのです。昔のテレビ番組の「トリヴィアの泉」の「へえ~」のレベルのことですが。
一方、「大勧進聖」(だいかんじんひじり)と呼ばれた重源(ちょうげん 1121~1206)の集金術については、天才詐欺師のような側面もあるし、いやそれは宗教的カリスマなのだという見方も成り立つ、つまり両義的だと私は思う。
特別展に展示されていた、重源が勧進(寄付をつのる活動)に用いた小道具群=漆塗りのひしゃく・杖、鉦鼓(どらのような小鐘)、仏舎利(釈迦の遺骨)を入れる水晶でできた容器などを見ていると、やはり「魔術の中世」という言葉もあながち死語とはいえないな、と感じた。重源は大嘘も交えた説法をやって、ひょいと漆塗りのひしゃくを民衆の前に突き出したのだ。これで成功した。また、自分の弟子を伊勢神宮や四天王寺に送り、仏舎利などを盗みださせるようなことも行った。けれども民衆は彼を崇拝していたのだ。彼が死んだときには、重源の形見の小道具に取りすがって、泣くものが続出したという。
頼朝と重源、この二人は1195年東大寺供養式で邂逅(かいこう、出会うこと)するのだが、
ここで法然が一役買っている。供養式の直前、重源が突然行方をくらましてしまうのである。頼朝は困ってしまった。彼がいなければ、頼朝の面子は丸つぶれとなってしまう。そこで法然に使いを立てた。法然には心当たりがあったので、京の四条河原を探させた。するとそこの河原にすむ乞食たちの群れの中に、重源はいた。(寺内大吉著「法然讃歌」中公新書)こうして供養式はあいにくの雨であったが、数万の鎌倉武士たちの護衛のもと成功裡に終わった。
(めくらの平景清による頼朝暗殺未遂事件もあったようだが。)
兼実は日記「玉葉」で「雨にずぶぬれになっても、まったくものともせずに護衛をつづける武士たちとはいったいなんとたくましい人々なんだ。武士が貴族よりも劣っているという見方を改めなければならないぞ。」という趣旨の感想を残している。
慈円もこのときに頼朝と会談したということである。二人は初対面であるにもかかわらず、百年の知己であるかのように、互いを理解しあった。(「慈円」吉川弘文堂より)
慈円も頼朝も東西の本当の政治、宗教の指導者としてお互いを認めあっていたのだろう。後白河法皇なんていうのは、予想外に天皇の位についた人間であり、付け焼刃的な政治能力しか持ち合わせていなかった。後白河のせいでずいぶんとわれわれは煮え湯を飲まされてきた。けれども本当に政(まつりごと)が何であるかということを深く知っているのは、われわれ二人だけだという、暗黙の了解があったものと思われる。
しかし二人の間で義経のことは話題になっただろうか?私はおそらく話題にならなかっただろうと思うのだ。義経を追捕せよという命令を頼朝は出した。九条兼実も義経が京中に潜伏していないか捜索を厳しくした。慈円も比叡山で形としては捜索を行わせただろう。
そして義経を裏で手を回して、奥州に落ち延びさせる協力をした。
頼朝もうっすらとそのことに気づいていたかもしれない。けれども「もうすんだことだ、そのことで慈円を責めまい。長く源氏を守ってくれていたのだから。」と思ったであろう。
私の頼朝と慈円の人間像はこのようなものである。
田中進二郎拝