[1007]鎌倉仏教の謎を解く

田中進二郎 投稿日:2012/07/11 08:42

鎌倉仏教の謎を解く (訂正の回)
ここまでのところで事実誤認や訂正を要するところがいくつかありますので、お詫びして訂正します。

第二回(重掲999)より  後半「慈円の心を歌った和歌には宋学の影響が見られると思う。・・・北宋の思想家 周敦頤(しゅう とんい1017-1073)の存在を慈円(1155-1225)が知らなかったとは考えにくい」と書きましたが、宋学の祖といわれる周敦頤の存在が知られるようになったのは、彼の死後南宋の朱熹(しゅき1130-1200)によって、評価された後だということである。
宋学を最初に日本にもたらしたのは真言宗の僧俊芿(しゅんじょう)で1199年ともいうが明らかではないそうだ。ちなみに周敦頤については、時代ははるかに下るが、江戸末期の陽明学者大塩平八郎が「洗心洞箚記」(せんしんどうさっき)で取り上げている。
やはり慈円の「無技巧の技巧」(「慈円」多賀宗準著 吉川弘文堂)ともいうべき自由闊達な和歌の表現の源を宋学にもとめるのは厳しいか?私には慈円において突如として個人の志操が和歌で詠まれるようになったことが不可思議に思えてならない。
間違いの上塗りになるかもしれないが、漢詩に対する対抗意識が慈円の中で強く作用していたせいかも知れない。ちなみに慈円の和歌は伝存するもので六千首あり、七、八万ぐらい詠んでいたのではないかと推定されているそうだ。慈円にとっては和歌を詠むのは「息をすることと同じようなもの」と上記の慈円の伝記には書かれていた。(人間じゃない)

第四回(重掲1002)より 「ちんちくりんの陳和卿(ちんなけい)は坊主」であるだけではなく宋から渡ってきた工人で、大工の棟梁のようにグループを率いていた。学僧でもあり、また南宋のスパイであるという可能性も高い。平家の兵火によって焼けた大仏と大仏殿の再建に重源とともに活躍した。時代が下り、三大将軍源実朝に鎌倉で謁見したあと、
実朝の渡宋計画を実現すべく唐船を建造するが、船は海に浮かばなかった。(吾妻鏡 1216年)これは北条義時と大江広元による妨害工作にあったためであり、実朝暗殺後、陳和卿も火事のどさくさの内に殺されたという説もある。(いいだもも著「日本」の原型 p227)
吾妻鏡では「渡宋計画」のくだりは実朝の乱心のように書かれているが、愚管抄では大江広元、北条義時が、実朝をじわりじわり追い詰めていって、最後に御家人三浦義村と手を組んで殺したという見方を記している。(巻第六)頼朝の不審死に始まり、頼家、実朝、公暁ら源氏の血脈を次々と消し去っていった裏には北条時政、義時のほかに、大江広元がいる。その大江広元は実朝暗殺事件の前に、失明したと愚管抄には記されているが、慈円は「ふふ、悪行の報いよ」とでもいいたげな口調である。

訂正については以上です。いろいろ調べているうちに頭が混乱してきましたので、残念ながらきょうはここまでです。ご不満な方は、「副島隆彦の論文教室」にある長井大輔さんの「日本権力闘争史」をお読みください。副島先生の仏教論もそこにあるよ。それでは。
田中進二郎拝