[1006]鎌倉仏教の謎を解く
鎌倉仏教の謎を解く 第6回
今回以降二、三回の主なテーマ
・愚管抄(ぐかんしょう)執筆の動機とその転換
・慈円はなぜ、源氏の血につらなる、親鸞や九郎義経をかくまったのか?
・「未来記」にとりつかれた人々。慈円、重源(ちょうげん)、後白河法皇について
・唯円著「歎異抄」(たんにしょう)の永きにわたる誤読の伝統
「愚管抄」の全体の中で慈円の筆は、ものの道理をわきまえない同時代の人間に対する冷たい侮蔑などが、散見できるのであるが、慈円が冷血人間であったと考えるのは間違いである。仏教用語では、すぐれた洞察力をもつことを天眼、法眼などというが、慈円の目がまさにそういうものなのだ。
「愚管抄」はおそらくもともとは新「日本書紀」のつもりで書き始められたものではないか、原文をざっとみてみると、全7巻の中で巻一と巻二が歴代天皇の年代記(84代)となっている。
そしてこの部分は、今の若い日本人がみればゲッとなる、ほとんど漢字だけの世界である。巻二の終わりから突然、カナ文字(片仮名は寺の僧侶たちの発明品である。)の世界が姿をあらわし、冴え渡る口調で進んでいく。それが巻七の最後まで続く。巻三からは、歴代天皇の治世からみた「ものの道理」の考察を行っている。巻三が藤原道長の治世の最後まで、巻四が保元の乱まで、巻五の最後が、前回とりあげたが義経の死と頼朝の奥州制定までである。巻六が源実朝の暗殺と後鳥羽上皇が挙兵を決意するまで。そして最終巻がこの本の執筆の動機と慈円の歴史観の総括、そして末法の世への嘆きとなって、最後は世の中を立て直す案を自問自答しながら、途中でしりきれトンボのように終わる。
(現代語訳は講談社学術文庫で、原文は「ひらがな愚管抄」でグーグル検索したら読める。)
興味深く思えるのは、漢文オンパレードの巻二の終わりに、突然いきいきした日本語を用いることの重要性を述べ始めていることで、同時にここが文体の転換点ともなっていることである。してみると、「愚管抄とはなにか」を問うときの重要な章といえるだろう。
本稿の第二回(重たい掲示板999)で「後で引用する」といったままだったので今度は引用しよう。(これより「愚管抄」巻第二の終わりを原文のひらがな変換したものを引用する。)
「ひとえに仮名に書つくることは、是も道理を思ひて書るなり。先是をかく書かんと思ひよることは、物しれる事なき人の料也。此末代ざまのことをみるに、文簿にたづさわれる人は、高きも卑も、僧にも俗にも、ありがたく学問はさすがする由にて、わづかに真名(まな 漢字)の文字をば読ども、又其義理をさとり知れる人はなし。男は紀伝・明経の文多かれども、みしらざるがごとし。僧は経論章疏あれども、学するものすくなし。日本紀以下律令はわが国の事なれども、今すこし読とく人ありがたし。(だからといって今度は)仮名に書くばかりにては、やまと詞の本体にて文字にえ書からず。
仮名に書たるも、猶よみにくき程のことばを、むげの事にして人是をわらふ。はたと・むずと・しゃくと・どうと、などいふことばども也。是こそ此やまとことばの本体にてはあれ。此詞どもの心をば人皆是を知れり。
あやしの夫とのゐ人(殿上人)までも、此の言の葉やうなることぐさにて、多事をば心得らるるなり。
是をおかしとて書かずはばた(結局)、真名をこそ用いるべけれ。此道理どもを思ひつづけて、是は書き付け侍りぬるなり。」(以下略 引用おわり)
上の文章には、より多くの人々に自分の言葉を届けようとする慈円の熱意が感じとれよう。
また慈円はこの後、漢文調をぴたりとやめているのであるから、自分に向けて書いているようにも取れる。ただ研究家の中では、この箇所は後から追記した文であることのようだが、前か後かなどということはあまり問題ではない。サルトルの言葉に「批評とは自分を変えることだ。」というのがあるが、慈円も古色蒼然たる紀伝体に自分から、一気に別れを告げていったのだ。
田中進二郎拝