[1005]鎌倉仏教の謎を解く 

田中進二郎 投稿日:2012/07/05 08:42

鎌倉仏教の謎を解く 第5回
悪人正機説は法然が創始した教えであるということを、前回、前々回から書いてきていますが、「証拠があるのか。」と文句を言いたい方もおられるでしょう。
私も前々回の法然と親鸞の悪人正機説の違いを述べたところがまだ歯がゆいと感じており、
くどくなってしまうことを承知でもう一度根拠をあげ、説明を試みてみます。ここらへんが浄土宗、浄土真宗解明のひとつの鍵と私は考えます。

前回、平重衡(しげひら)の最期について述べた箇所で、「法然讃歌」(寺内大吉著 中公新書)という本をおすすめしましたが、この本がなぜ書かれたのかというと、浄土宗の宗務総長の地位にいた著者が浄土宗の教条主義化に危惧を抱いて、法然像の見直しを図ったとあとがきにかかれていた。「愚痴の法然房」(愚痴とは愚かで知恵がないこと。愚禿親鸞と同じである。)を自称していた法然がニーチェの「超人」のように自説を高唱するはずがない、聖人化されてしまった法然をある意味でひきづりおろそうという試みであるとも。

1916年(大正5年)に真言宗醍醐寺で勢観房源智(せいかんぼうげんち 法然の最期をみとった弟子)によって書かれた「法然上人伝記」(醍醐本ともいう)が発見された。
それには「善人尚以往生、況悪人也」(善人なおもて往生す、いわんや悪人をや)と記されていて、善人は善人なりに悪人は悪人なりに念仏を唱えれば往生するという法然の教えから飛躍がある。記した源智自身この意味が理解できず、三日三晩熟考したという。そして、「悪の機縁を持つ者が往生を遂げるということが道理にかなっている、ということを習い得た者は良く浄土宗を学んだことになる。浄土門は悪人を手本として善人をも救う。聖道門(しょうどうもん 自力本願を旨とし、聖人になることをめざす)は善人を手本として悪人をも救うという違いである。」という法然の言葉に腑に落ちたという。

「選択本願念仏集」(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)は法然の主著とされるが、
九条兼実(くじょうかねざね)が関白職を解かれて失脚した時期に、法然に専修念仏の奥義をまとめてもらいたいと頼まれて著した書である。易行道が聖道門よりもすぐれていること、易行道の念仏を唱えれば、十悪のものも往生を遂げることなどが説かれる。これだけでも、十分に危険な書とされ、法然一門の後鳥羽上皇による弾圧の一因となっていく。法然は危険を十分に承知していて、源智に言ったような悪人正機説は口で伝えていたのであろうと、私は推測する。

親鸞の悪人正機について述べる前に。
ここで副島先生からのメールを一部紹介します。以下は、「その1」(重たい掲示板990)を書いた後でいただいたものです

「愚管抄を書いた 天台座主でもあった慈円の目はものすごく重要です。兄の 九条兼実と共に 冷ややかに全てを見通しています。 しかも自分たちが 危険な中で 源氏を支え続けていることにも自覚があった。 がんばりなさい。」
以上、引用おわり。

慈円の目は恐ろしい。親鸞が源義朝の娘の子である(つまり源頼朝の甥にあたる)という梅原猛氏の説を第一回でとりあげたのですが、(その後どうも、親鸞と義経がダブって見えてならなかった。)義経は兄頼朝に追われる立場に立ったとき慈円にかくまわれて、その後奥州平泉までたどりついたと「愚管抄」の中にきちんと書いてあった!

(慈円 「愚管抄」巻第五 大隈和雄訳 講談社学術文庫p306より引用)
「九郎義経はしばらくの間時節を待とうと、身を隠しながらあちこちと移動していた。無動寺(延暦寺東塔にあった別院で、当時は慈円が管理していた 訳者注)に財修という下級の僧がいたが、その僧房にしばらくの間九郎をかくまっていたと、のちになって伝えられた。こうして九郎はついに逃げおおせて、陸奥国の藤原泰衡のところに行ったのである。この逃亡のことは驚くべきことであると評判されたが、泰衡は九郎を討ち取ってそのことを頼朝に報告した。しかし、陸奥国の人々は「殺さなくてもよかったのに、悪いことをしたものだ」と語りあったということである。」(引用 ここまで)

さらに、このページには、九郎義経に逆心を植えつけたのは御白河法皇で、義経を利用して頼朝追討の宣旨(せんじ)を出したのであるが、法皇に「宣旨を出す理由などどこにもない」と反論したのは、公家の中で九条兼実だけであったということもかかれている。
慈円はのちの後鳥羽上皇の起こした承久の乱との関連で、義経の没落を記述しているのだろう。承久の乱よりずっと以前に、律令国家と天皇が早晩没落することを、慈円は見据えていたであろう。慈円は歴史を書きながら未来を見ていたのである。

田中進二郎拝